白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――3

三、編成の背景 ――北の嵐――
 
 では、ロシア人捕虜がなぜこれほどまでに優遇され、彼らの部隊すら編成されるにいたったのだろうか。その背景には、当時の清を取り巻く国際情勢が深く関与していた。

 清とロシアが黒龍江流域で戦っているころ、ハルハ=モンゴル(現在のモンゴル国)は左右翼の二大勢力に分かれて抗争を繰り返していたが、康熙二十七年(1688)六月右翼(西部)を支援していたジューン=ガル部のガルダン(噶爾丹)が、大挙ハルハに侵攻、瞬く間にモンゴル高原を支配下に収めてしまった。
 ガルダンと対立していた、ハルハ左翼(東部)の宗教的指導者(転生僧)ジェブツンダンバホトクト(折卜尊丹巴庫図克図)と政治的指導者トシェートハーン(土謝図汗)は、多くの部衆たちとともに清朝の領域である内モンゴルに亡命した(1)
 以後、ガルダンは二人の引渡しを執拗に要求し、これが清朝との間の摩擦となり、後に大規模な戦争へと発展する。
 
 清朝としては、西北に新たな脅威が出現したわけで、それゆえ、ロシアとの関係をできる限り早く修復しなければならなかった。 また、ガルダンは清朝に対して、自国の背後にロシアがいることをちらつかせ、同時にロシアを味方に引き込むべく外交的な働きかけを行っているし(2)、実際、ロシアにもハルハ進攻時に好意的態度を見せるなどガルダンに肩入れする動きもあった(3)

 
 そこで、康熙帝はガルダンを懸命に慰撫する一方、ロシアにはガルダンを支援しないよう、再三にわたって申し入れている(4)
後の話であるが、
康熙三十五年(1696)のモンゴル親征時にはロシアがガルダンに援軍を出したというデマが流れ、遠征軍首脳部を大いにあわてさせている(5)。これはガルダンが意図的に流したうわさの可能性が高いが、清朝にとってのロシアの存在の不気味さがうかがえる。

 ただ、ロシアはガルダンに対し好意的な態度を見せはしたが、中国貿易の利益を重視する政策的立場、そしてこの事件の少し後にはヨーロッパ方面でトルコやスウェーデンとの戦争で忙しくなったこともあり、具体的な支援は一切行わなかったようだ。 

 このように、当時はモンゴル高原の情勢が風雲急を告げており、モンゴルやジューン=ガルと接するロシアとの外交がますます重要となってきた。そして次章で述べるように、俄羅斯佐領の旗人にはロシア語の通訳・翻訳者としての任務が課せられており、彼らは清露交渉で重要な役割を演じることとなる。

ロシア人捕虜への異例とも言える優遇、そしてロシア人部隊設立の背景には、こうした国際情勢が密接にかかわっていたと思われる。

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(1)ハルハ左右翼の抗争と清朝帰属時の経緯については、宮脇淳子「十七世紀清朝帰属時のハルハ・モンゴル」(『東洋学報』第六十一巻第一・二号、1979年)、pp.108~138、岡田英弘『康熙帝の手紙』中公新書559、1979年、pp.24~37→同『康熙帝の手紙』藤原書店、2013年、pp.85~102に詳しい。
(2)羽田明「ジュンガル王国とブハーラ人――内陸アジアの遊牧民とオアシス農耕民」『東洋史研究』第十二巻第六号、 1954年、若松 寛「オイラート族の発展」『岩波講座世界歴史13・中世7、岩波書店、1971年』、宮脇淳子『最後の遊牧帝国
――ジューンガル部の興亡』講談社選書メチエ41、1995年、吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』近代中国研究センター、 1984、pp.315~316
(3)吉田金一『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』近代中国研究センター 1984、p.239。
(4)同書pp.311~322。
(5)『親征平定朔漠方略』卷二十二、康熙三十五年四月乙未条(『親征平定朔漢方略』影印本、西蔵社会科学院西蔵学漢文文献編輯室編、西蔵学漢文文献彙刻第四輯、中国蔵学出版社、1994)、岡田英弘『康熙帝の手紙』中公新書559、1979年、pp.52~53→同『康熙帝の手紙』藤原書店、2013年、pp.124~126

白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――4