「借り物の言葉」と「自分の言葉」
かつてX(旧Twitter)を使っていた頃、私は周囲の空気を読みすぎるあまり、つい「自己検閲」や「忖度」をしてしまうことが多かった。何気ない言葉が誰かの気に障らないか、ちょっとした発言が炎上の火種にならないか。そんなことを常に頭の片隅で気にしながら投稿していた。
それはもう、本当に疲れる作業だったし、何より、言葉を発するたびに、自分が少しずつ「自分」でなくなっていく感覚があった。
フォローしていた人たち、フォロワーとして付き合っていた人たちも、時間が経つにつれて、考え方や言葉づかい、あるいは投稿のスタンスが徐々に変化していった。
もしかするとそれは、彼らなりの「自己防衛」だったのかもしれない。自分を守るために、少しずつ「自分の言葉」を手放していったのかもしれない。
そして気づけば、自分も、そして周囲も、みんなが「借り物の言葉」でしか話せなくなっていた。
私が現在主に活動しているFediverseが必ずしも理想郷だとは思わない。そこにも当然、摩擦や誤解はあるし、すべてが自由で平和な空間というわけでもない。
それでも、自分がそこに心地よさを感じているのは、「自己検閲」を経た言葉や、誰かの顔色をうかがって選ばれた無難な表現すなわち「借り物の言葉」ではなく、もっと素直に、もっと率直に「自分の言葉」を発している人たちが多いからだと思う。
そして、今、自分がわざわざレンタルサーバーを借りて、「お一人様ブログ」を続けている理由も、結局はそこにあるのかもしれない。
誰にも気を使わず、誰かの意図を忖度せず、ただ自分の感じたことを、「自分の言葉」で綴っていく。
それが、私にとっての「自分を取り戻す」行為なのかもしれない。