瀋陽北塔 エイドゥ(額亦都)碑文
2006年2月に瀋陽の北塔(法輪寺)を訪れたときの写真です。
清(後金)はモンゴルを同盟者として取り込むため、チベット仏教をとりわけ重視していた。
ホンタイジは盛京(瀋陽)鎮護のため、周辺東西南北に一寺ずつ、計四寺のチベット仏教寺院を建立し、それぞれに白塔を建てた。
これらの塔はそれぞれ東塔、西塔、南塔、北塔とよばれ、まとめて「奉天四塔」とも称された。
満洲事変で有名な柳条湖付近にある法輪寺にはこれら「奉天四塔」の一つ北塔がある。
寺院境内にはチベット文字やモンゴル文字が目立ち、周囲とは異質な空間。
盛京からモンゴル、そしてラサへと伸びるホンタイジの視線がありありとうかがえる。
また、寺院内の碑林には瀋陽で見つかったいろいろな石碑が展示されている。
ただ、けっこう無造作に扱われているような気がして残念。また、寺の門外には修復、整理中の石碑がたくさん集積されていた。
見ものはヌルハチの「五大臣」の一人エイドゥ(額亦都)の碑文(順治十一年(1655)四月十八日)
このように横倒しになった形で展示。
amba baturu gung eidu i bei bithe (弘毅公エイドゥの碑文)やtaidzu hūwangdi(太祖皇帝=ヌルハチ)といった文字が読み取れる。
損傷や欠落が多いのが非常に惜しまれる。