『満洲実録』名場面集 その8
年代:戊子年~己丑年(1588~1589、明万暦十六年~十七年)
画像は『満洲実録』第二巻から
・左枠
[満:taidzu fodoho moo be gabtaha,,(太祖が柳の木を射た) ]
[漢:太祖射柳於洞野(太祖、柳を洞野に於いて射る)]
[蒙: ]
・挿絵:挿絵下側で弓を持ち、様子を見守る人物
満:niowenggiyen(ニオウェンギイェン)
漢:鈕翁金
戊子年(1588年、明万暦十六年)四月、ヌルハチは有力部族のハダ部のフルガン Hūrgan(ワン=ハン Wan han の息子。後述のヤルグ部のフルガンとは別人)の娘のアミン=ジェジェと結婚している。アミン=ジェジェの兄ダイシャン(ヌルハチの息子のダイシャンとは別人)が彼女を送り届けにやってきた。
この婚姻はヌルハチの方から申し込み、明朝側が取り持ったものらしい。
ハダ部はワン=ハン時代に大勢力を誇ったが、ワン=ハン死後に一族の内紛が起こり、明が支援してきたワン=ハン嫡流のフルガンと息子ダイシャンもハダ部内で孤立していた。その上、ハダ部と敵対するイェヘ部が着実に影響力を拡大し、しかもヌルハチはイェヘ部との連携を画策し、ハダ部は窮地に陥っていた。そして、明朝としてもイェヘ部の影響力が大きくなりすぎることは勢力均衡上好ましくなく、新興勢力のヌルハチも無視できない存在となっていた。
この婚姻の意義とは、ヌルハチとしてはハダ部と結びつくことで安定を確保し、ハダ部としてはヌルハチとの同盟によるテコ入れを図り、明朝としては新興勢力のヌルハチとハダ部を政略結婚で結びつけることで、イェヘ部の勢力が大きくなりすぎないようにしたことだと思われる。
ヌルハチはドゥン Dung(洞)の野でダイシャン、アミン=ジェジェ一行を出迎えた。その時、ある男が箙を腰にし、馬に乗り、ヌルハチの前を通り過ぎようとした。ヌルハチはかたわらの大臣たち ambasa に「この者は何という者か」と問うた。大臣たちは「南のドンゴ部にこれ以上の弓を射るつわものはいません。弓を射るつわものニオウェンギイェン Gabtara Mangga Niowenggiyen とはこの者です」と答えた(「弓を射るつわものニオウェンギイェン 」は漢文対応箇所では「鈕翁金善射」)。
それを聞いたヌルハチはさっそくニオウェンギイェンに百歩以上離れた柳を射させた。ニオウェンギイェンは五回射て三回当て、二回外した。三回当てたが矢は上下に散らばって刺さっていた。
ヌルハチは自ら五本の矢を射た。五本とも的に当たり、しかも五本全てが五寸の範囲内に収まっていた。矢は深く食い込んでおり、命中した場所をえぐり取ることでようやく取り出すことができた。
それから、ダイシャン=ベイレ がアミン=ジェジェを連れて到着したので、酒宴を行い、アミン=ジェジェを妻とした。
ヌルハチとニオウェンギイェンが柳の木を的にして行った弓の勝負だが、これは「射柳」と呼ばれる儀式・競技である。射柳は北アジアでは古くは遼代(916~1125)に始まり、金代(1115~1234)以降の女真族もこれを受け継ぎ、シャーマニズムの天を祭る儀式に付随して行なっていた。ヌルハチだけでなく、息子ホン=タイジも後に満洲・モンゴル・漢を包摂する「大清」の皇帝(ハン)として即位する時に射柳を行っている(石橋崇雄『清初皇帝権の形成過程―― 特に『丙子四年四月〈秘録〉登ハン大位檔』にみえる太宗ホン・タイジの皇帝即位記事を中心として』)。
・左枠
[満:taidzu de ilan aiman i ambasa dahame jihe,,(太祖に三部の大人が降ってきた) ]
[漢:三部長率衆歸降(三部の長、衆を率いて歸降す)]
[蒙: ]
・挿絵:跪く人物たち
(左から)
満:solgo(ソルゴ)
漢:索爾果
満:fiongdon(フィオンドン)
漢:費英東
満:hohori(ホホリ)
漢:何和里
満:hūlahū(フラフ)
漢:滬拉瑚
満:hūrgan(フルガン)
漢:滬爾漢
その後、周辺勢力が相次いでヌルハチへと来降する。ヌルハチの勢力拡大を見て、それまで模様眺めをしていた勢力が態度を決めてヌルハチに服従したのである。
まず、スワン Suwan 部の部長ソルゴ Solgo(索爾果)が部衆を率いて来帰した。ヌルハチはソルゴの子フィオンドン Fiongdon(費英東)を第一等の大臣に任じた。
次に、ドンゴ部の部長ケチェ=バヤン Kece Bayan (克轍、克徹殷富)の孫のホホリ Hohori(何和里)も部衆を率いて来帰し、ヌルハチは長女ヌンジェ=ゲゲ Nunje Gege(嫩哲格格)を娶せ、第一等の大臣に任じた。
さらに、ヤルグ部の部長 Hūlahū フラフ(滬拉瑚)も自らの兄弟の一族を殺して、部衆を率いて来帰した。ヌルハチはフラフの子のフルガン Hūrgan (滬爾漢)を養子とし、同様に第一等の大臣に任じた。
フィオンドン、ホホリ、フルガンは、前回までに取り上げたアン=フィヤング、エイドゥとともに「五大臣」としてヌルハチを輔佐していくことになる。
スワン部、ドンゴ部、ヤルグ部の来帰により、ワンギヤ部を除くマンジュ国(マンジュ五部、建州女真)はほぼ統一され、ヌルハチは無視できない新興勢力として、周辺勢力から注目されるようになった。
これに伴い、ヌルハチ勢力は明朝との交易ルートの掌握に成功し、繁栄を迎えた。『満洲実録』にはその様子が次のように描かれている。
(満文)
tuttu golo goloi ambasa be elbime, dahabure šurdeme gurun be dailame wacihiyara,tereci manju gurun ulhiyen i etuhun hūsungge oho, tere fonde daiming gurun i wan lii han de aniya dari elcin takūrame hū waliyasun doroi sunja tanggū ejehei ulin be gaime gurun ci tucire genggiyen tana,orhoda,sahaliyan,boro,fulgiyan ilan hacin i dobihi,seke,silun,yarga,tasha,lekerhi hailun,ulhu,solohi,hacin hacin i furdehe be beye de etume,fušun šo,cing ho,kuwan diyan,ai yang duin duka de hūda hūdašame ulin nadan gaime,manju gurun bayan wesihun oho,,
(漢文)
太組遂招徠各部、環滿洲而居者皆爲削平、國勢日盛。輿明國通好、遣使往來、執五百道勅書、受年例金幤、本地所產有明珠、人參、黒狐、元狐、紅狐、貂鼠、猞狸猻、虎、豹、海獺、水獺、青鼠、黄鼠等皮、以備國用。撫順、清河、寛甸、靉腸四處關口互市交易、以通商賈。因此滿洲民殷國富。
(満文からの日本語訳)
このように、処々の大人らを招降し、周辺の従える国を従え終わり、それからマンジュ国は次第に強く、盛んとなった。その時大明国の万暦ハン(万暦帝)に毎年使いを送り、和平の道により、五百通の勅書(貿易許可証)を手に入れ、国から出る光輝く東珠(淡水真珠)、人参、黒、白、赤の三種類のキツネ、テン、オオヤマネコ、ヒョウ、トラ、ラッコ、カワウソ、リス、イタチ等種々の毛皮を携えて、撫順所(撫順)、清河、寛甸、靉陽の四ヶ所の関所で商いを営み、財宝を手に入れ、マンジュ国は富み、盛んとなった。
『満洲実録』巻二 戊子年(1588)四月条 ( )内は引用者注
東珠(満洲語では「タナ tana」または「ニチュへ nicuhe」と呼ばれる)は、現在の中国東北部で取れる淡水真珠をいう。後に清朝が成立すると、東珠は満洲族と清朝の象徴として、皇族の朝珠(ネックレス)、高級官僚の朝帽等の宝飾品に用いられた。詳しくは下記リンク先参照。
◎金鑲東珠朝帽頂、東珠朝珠―玉燦珠光 国立故宮博物院(台北)
http://www.npm.gov.tw/exh96/Dazzling/descriptions02_jp.html
(2012年7月9日閲覧)
遼東は薬用人参の生産地として有名であったが、このころの人参の主な生産地は現在の遼寧省南部の山岳地帯の鳳凰山や靉陽(あいよう)一帯で、マンジュ国(建州女真)の領域に含まれていたので、マンジュ国は人参交易で大いに利益を挙げていた。
また、ここで貿易品目に上がっているテン等の毛皮の多くは、マンジュ国(建州女真)領域ではなく、黒龍江中下流域で産出されたもので、交易ルートに乗って女真、さらには明、朝鮮へと運ばれていた。
明代の黒龍江中下流域――女真――明の毛皮交易ルートはフルン四部(海西女真)経由ルートが主流だったが、当時はフルン四部の各部間の紛争やハダ部の内紛により、このルートは不安定化していた。
そして、ヌルハチはこの機会を巧みに利用して交易ルートの掌握に成功したのである。フルン四部ルートの不安定化はちょうどヌルハチの勢力拡大時期と重なっている。
同年九月、マンジュ国をめぐるこうした情勢を見ていたイェヘ部のナリムブルは、妹のモンゴジェジェ Monggojeje をヌルハチの妻として嫁入りさせた。
以前、ヌルハチは祖父と父が殺される前後にナリムブルの父ヤンギヌの元に出向き、ヤンギヌの娘を妻にしたいと申し込んでいる。だが、ヤンギヌはヌルハチの風采を気に入ったものの、娘がまだ幼いので、成長するのを待って結婚させるという約束を交わしたにとどまった。
ところがこの年三月に李成梁率いる明軍に攻めこまれて大きな損害を出し、政治的にも明に屈服する結果となった。そこでヤンギヌの跡を継いでいた息子ナリムブルは、イェヘ部の安全を確保するため急遽結婚の約束を履行することにしたのである。
このときモンゴジェジェは十四歳であった。彼女は名門のイェヘ部(イェヘ=ナラ氏 Yehe Nara)の出身であり、後に太宗ホン=タイジを生むことになる。
それから、ヌルハチはワンギヤ部のワンギヤ城 Wanggiyai hoton(完顔城)を攻めた。進軍中の夜、ドシンガ Dosingga(棟興阿) という土地を通過した時、大きな流れ星を見て、兵も馬も驚いたという。それからワンギヤ城に到着して、城を攻め取り、ワンギヤ部長のダイドゥ=メルゲン(『満洲実録』名場面集 その4 に登場)を攻め取った。
ところで、『満洲実録』には、流星や彗星と思われる天文現象が多く記録され、それらはしばしば戦いに関連づけられている。
例えば、巻三丁未年(1607、明万暦三十五年)九月六日条には、ホイファ部の方向に流星群と思われる現象が見られ、その直後にヌルハチがホイファ部を滅ぼしことが記されている。巻三壬子年(1612、明万暦四十年)十二月条にも、同様に流れ星がウラ部の方角からヘトゥ=アラ城の上を越え、フラン=ハダの方角へと流れ、その直後の翌年一月にヌルハチがウラ部を攻め滅ぼしたことが記されている。
・左枠
[満:taidzu joogiyai hoton i tule ambula afafi,uyun niyalma be waha,,(太祖はジョーギヤ城の外で大いに戦い、九人を殺した) ]
[漢:太祖兆佳城大戰(太祖、兆佳城にて大いに戰う)]
[蒙: ]
己丑年(1589、明万暦十七年)、ヌルハチはワンギヤ部の残党ニングチン=ジャンギンが拠るジョーギヤ城を攻めた。ニングチン=ジャンギンについては、『満洲実録』本文では所属勢力を明記していないが、増井寛也氏の研究によるとワンギヤ部であったようだ(増井寛也「明末建州女直のワンギャ部とワンギャ・ハラ」)。
ヌルハチは城外に伏兵を置いており、城兵百人が打って出てきたので、伏兵は弓を射かけた。だが城兵はヌルハチのいる場所へとまっすぐ突っ込んできた。ヌルハチは一人で百人の敵に立ち向かい、九人を斬り殺し、残りを蹴散らして、城内に戻らせなかった。
そして城を囲み、四日目に落城間近となった。だがそのとき、兵たちは城内に蓄えられた財物に目がくらみ、戦いそっちのけで略奪を始めた。
それを見たヌルハチは、ナイフ Naihū(鼐護)という大臣 ambanに「兵たちが分捕り品を奪い合って、我々同士で殺し合いになりかねん。警告してやめさせろ」と命じて、自分の着ていた鎧を着せて略奪を止めに行かせたが、なんとナイフは兵たちを止めるどころか、一緒になって略奪を始めてしまった。
太祖はさらにバルタイ Bartai(巴爾太)という者に着ていた綿甲を着せて、「もうすぐ敵が敗走する。私の鎧を取ってこい」と命じて鎧を取りに行かせたが、バルタイも一緒になって略奪を始める始末だった。
・左枠
[満:taidzu uksun i deo wangšan be tucibuhe,,(太祖は一門の弟ワンシャンを救い出した) ]
[漢:太祖射敵救旺善(太祖、敵を射て旺善を救う)]
[蒙: ]
・挿絵:うつ伏せになっている人物
満:wangšan(ワンシャン)
漢:旺善
その時、突如十人の敵兵が現れた。ヌルハチの一門 uksun のワンシャン Wangšan (旺善。「ニングタのベイレ」の三祖ソーチャンガの孫)は地面に押し倒された。敵兵は馬乗りになり、槍でワンシャンを突き刺そうとした。
それを見たヌルハチは鎧、綿甲を身につけずにすぐさま駆けつけ、馬乗りになっていた敵兵の眉間を矢で射抜いて倒した。
それから、城を攻め取り、城主のニングチン=ジャンギンを殺した。
ダイドゥ=メルゲンとニングチン=ジャンギンが滅ぼされ、マンジュ五部にはもはやヌルハチに対抗できる勢力は存在しなくなった。
ヌルハチはついにマンジュ五部の統一を達成した。
これに対し、明は同年九月にヌルハチに都督僉事の位を与えている。都督僉事は明が女真族に与える最高の位であり、ヌルハチのマンジュ五部統一を事実上追認するものだった。
ヌルハチは周辺勢力を平定し、政権としての基礎を固めた。これまでは周辺の中小勢力との戦いだったが、以後はフルン四部(海西女真)のハダ部、ウラ部、ホイファ部、イェへ部などの大勢力と戦うことになる。しかもこれら大勢力は明朝とも結びついており、明朝もヌルハチの動向に本格的に注意を払い始める。
(つづく)
・・・・・・
史料・参考文献・ウェブサイト
史料
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年
参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
石橋崇雄『清初皇帝權の形成過程―― 特に『丙子四年四月〈秘録〉登ハン大位檔』にみえる太宗ホン・タイジの皇帝即位記事を中心として』『東洋史研究』53-1、1994年
石橋崇雄『大清帝国への道』講談社学術文庫、講談社、2011年
増井寛也「明末建州女直のワンギャ部とワンギャ・ハラ」『東方学』93、1997年
増井寛也「ヌルハチ勃興初期の事跡補遺-エイドゥ=バトゥル自述の功業記を中心に」『大垣女子短期大学研究紀要』40、1999年
増井寛也「建州統一期のヌルハチ政権とボォイ=ニャルマ」 『立命館文學』第587号、2004年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
ウェブサイト
◎金鑲東珠朝帽頂、東珠朝珠―玉燦珠光 国立故宮博物院(台北)
http://www.npm.gov.tw/exh96/Dazzling/descriptions02_jp.html
(2012年7月9日閲覧)
“『満洲実録』名場面集 その8” に対して4件のコメントがあります。
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こんにちは
モンゴル語の部分をローマ字に翻字してみましたが、間違いがあるかもしれません:
1. tayisu uda modun-i qarbubai
2. tayisu-dur γurban ayimaγ-un eǰed oruǰu irelüge
3. tayisu ǰoogiy-a-yin qota-yin γadan-a yekede qadqulduǰu yisün kümün-i alaluγ-a
4. tayisu törül-ün degü-yügen wangšan–i dayisun- ača γarγabai
こんばんは。
お久しぶりです。
モンゴル語部分の翻字をいただき、誠にありがとうございます。
自分はモンゴル語はまだ勉強できていません。
以前から、清朝や内陸アジア史を学ぶには、内陸アジアの国際語であるモンゴル語が欠かせないと感じつつも、仕事や日常にかまけて、ほとんど手を付けないまま今に至っています。
射柳についての説明を読んで、丙子胡乱で朝鮮が降伏し、三田渡で受降式を行なった中に出てくる「汗使龍骨大、告我諸侍臣曰、今則両国為一家矣。欲観射芸、其各効技。従官等答曰、来此者皆文官、故不能射矣。龍胡強之、遂令衛率鄭以重出射、而弓矢与本国之制不同、五射而俱不中。清王子及諸将、雑沓竝射以為戯」(『仁祖実録』仁祖15年(1637年)1月30日条)という記述が、射柳のことを指しているんじゃないかと気づきました。
ご教示いただきありがとうございます!
『仁祖実録』にそんな記事があるんですね。確かにこれは射柳の可能性が高いですね。
女真、そして清が節目節目で行なってきた射柳の儀式を朝鮮でも行ったというのはまさに「今則両国為一家矣」という意味合いだったのでしょう。