論文要旨

 清朝は明との戦争で火器の威力を知り、火器の導入を決意し、佟養性ら投降漢人を利用しつつ、火器の運用がもたらすさまざまな問題をクリアしていった。
 しかしながら、火器の輸送と補給は依然清朝にとって困難な問題であり続けたし、八旗漢軍も、攻城戦や陣地戦には強さを発揮したが、野戦においてはいまだ満洲・蒙古騎兵が主要な位置にあった。
 「火器営」は、その編成年次とされている康熙三十年(1691)以前にも存在した。しかし、この「火器営」は満洲・蒙古旗人によって編成された「満洲火器営」ではなく、八旗漢軍から兵員を選抜して編成したものであって、「漢軍火器営」・「漢軍火器兼練大刀営」と呼ばれた部隊であった。なお、この部隊は装備・戦術等の面では既存の八旗漢軍と特に相違は見られなかった。
 康熙三十年(1691)に、京旗の満洲・蒙古旗人によって編成された「火器営 (満洲火器営)」はその総兵力は約6000~7000名であり、主任務は馬上からの鳥鎗射撃と子母砲の運用であった。
 火器営の漢軍火器営との共通点は組織形態・兵力・軍事的位置であって、火器営は漢軍火器営に倣って編成されたと考えられる。一方、相違点として兵員の構成、機動力を重視した騎馬主体の装備と戦術が挙げられ、康熙三十五年(1696)のモンゴル親征中の追撃戦において、八旗の精鋭騎兵である前鋒・護軍に随伴できたことからもその行軍速度の早さが見て取れる。
 このように、火器営は皇帝による火器の掌握はもちろん、満洲・蒙古騎兵の機動力と鳥鎗・子母砲の火力を統合することを目的とした部隊であり、清朝によって新たに導入された「三兵戦術」において、中心的役割を担っていた。
 この点から、火器営設立の意義はヨーロッパ世界の「軍事革命」のアジアヘの波及による八旗の騎兵戦術と「三兵戦術」との統合であり、同時に火器の輸送・補給問題に対する一つの回答でもあったといえる。
 そして火器営編成の直接の要因は当時、清朝と対立していたジューンガル部の軍事的脅威であった。清朝側の対ジューンガル戦における戦訓認識を検討すると、火力と機動力、即応性を兼備した部隊が求められていたことが明らかであり、火器営こそがまさにその条件を満たす部隊であった。すなわち、火器営はジューンガル部との戦いで得た戦訓に基づいて編成されたのである。
 雍正・乾隆年間には、八旗改革の流れに沿って火器営の機構改革が行われた。また内務府三旗・前鋒営の火器操練に協力するなど、実戦部隊から次第に「教導隊」としての性格を強めたが、そのために前鋒営に火器軍としての特色を奪われ、前線での活躍が目立たなくなった〔この部分は、修士論文執筆当時の史料調査の不足による無用な予断であり、史料のさらなる調査による再検討が必要〕。しかし、乾隆年間中期以降の機構改革により、「尤も勁旅為り」として、再び精鋭部隊としての声価を高めたのであった。そして、これらの動きの背景にも常にジューンガル部・ビルマ・金川など周辺勢力への火器普及があった。
 しかしながら、火器営の改革は主として組織面に留まり、装備、戦術の近代化には及ばず、康熙・雍正年間の装備、戦術を墨守したまま清末を迎えることとなった。そして、火器営も清朝の統治能力と経済力の低下、そして八旗制度自体の崩壊と軌を同じくして、衰退の道を辿ったのであった。