十五世紀以降の、西欧における火器の急速な発達は軍隊と戦争の形態を大きく変化させ、騎士による突撃と原始的な攻城具による長期間の包囲戦はマスケット銃兵と機動砲兵による火力を集中した戦いに取って代わられた。
 この火器の発達は驚くべき速さで東へと波及した。東アジアにおいても、明や清そして周辺の諸勢力が火器をいち早く導入し、軍事力の拡大を図っている。特に中国において、この時期は明清交代の一大変革期に当たっていることから、火器の伝来と発達、そして明清交代において果たした役割について、既に多くの論考が発表されている。
 まず、明末清初の火器については、有馬成甫・張小青・王兆春三氏に代表される成果があり、明代後期、ポルトガルによりマ力オなどを通じて佛郎機(フランキ)や力ノン砲(紅夷砲、清朝においては夷字を避け「紅衣砲」と称す。本稿では「紅夷砲」に統一)、火縄銃(鳥鎗)が伝来し、明朝、さらに新興の清朝によって受容されていった過程や中国における技術発達の過程が明らかにされている(1) 明末清初における西洋火器に言及した論著は枚挙に遑なく、全てを列挙するのは不可能であるから、ここでは特に代表的なもののみ取り上げる。
 総括的な研究としては、有馬成甫『火砲の起源とその伝流』(吉川弘文館、1962)第七章「西洋火器の伝流」と、張小青「明清之際西洋火砲的輸入及其影響」(『清史研究集』第四輯、中国人民大学清史研究所編、四川人民出版社、1986)、王兆春『中国火器史』(軍事科学出版社、1991)第四章~第七章、解立紅「紅衣大砲与満洲興衰」(『満学研究』第二輯、閻崇年主編、民族出版社、1994)などがある。有馬氏にはさらにポルトガルからマ力オを通じて紅夷砲の受容が行われた過程を明らかにした「寧遠城の西洋砲に就て」(『軍事史研究』第四巻第三号、1939)もある。
 
火器の技術発達については、上述の諸論考の他に吉田光邦「明代の兵器」(『天工開物の研究』藪内清編、恒星社、1954)があり、『天工開物』所載の火器を中心に明代後期の兵器の機構や技術発達について解説している。胡建中「清代火砲」正・続(『故宮博物院院刊』1986年第2・4期、1986)と舒理広・胡建中・周静「南懐仁与中国清代鋳造的大砲」(『故宮博物院院刊』1989年第1期、1989)は、故宮博物院所蔵の火砲と諸史料をもとに清代火器の沿革や火器の要目について言及している。
 清初の火砲の受容については、田中宏巳「清初に於ける紅夷砲の出現とその運用」(一)~(四)(『歴史と地理・世界史の研究』78、79、81、82、1973~74)がある。田中氏は、清が紅夷砲の製造と運用に成功し、その力によって入関・中国平定を実現させた事情を明清双方の史料から考察し、その理由を清が東北に存在した漢人による鉱工業と投降火器兵など全ての「漢人諸力」を結集しうる統治能力を有したことに求めている。さらに、同様の問題を扱ったものとして、李鴻彬「皇太極与火砲」(『歴史襠案』 1997年第2期、1997)がある。

 次に、明清交代において火砲が果たした役割については、孟森・浦廉一・阿南惟敬・細谷良夫ら諸氏によって、清が対明戦争において紅夷砲を始めとする火砲の威力を知り、八旗漢軍の編成(2) 八旗制度では、満洲・蒙古・漢軍三旗(gūsa)は民族の区別に関わりなく、一旗の旗主(貝勒)に隷属した三つの並列的集団であり、この三つの集団により一旗が形成され、その一旗が八旗を構成していた(王鍾翰「清初八旗蒙古考」(『清史雑考』人民出版社、1957)、姚念慈「略論八旗蒙古和八旗漢軍的建立」(『中央民族大学学報』1995年第6期、1995))。すなわち、八旗が満洲・蒙古・漢軍に分かれているのであり、また清代の史料では、伝記史料を除いて、八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍という呼称が一般的である。従って、筆者は、満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗ではなく、八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍と称する。など、投降漢人を巧みに利用して火器の大規模な製造と運用を実現したこと、さらに八旗漢軍とその火器が入関と中国平定において大きな役割を果たしたことが明らかとなっている(3)  八旗漢軍の成立期に関する研究には以下のものがある。中国・台湾では、孟森「八旗制度考実」(『歴史語言研究所集刊』第六巻第四期、1936→同『明清史論著集刊』上巻、中華書局、1959)、陳文石「清太宗時代的重要政治措置」(『歴史語言研究所集刊』第四十巻上、1968)、趙奇娜「清八旗漢軍研究」(『故宮文献』第四巻第二号、1973)、劉家駒「清初八旗漢軍的肇建」(『清初政治発展史論集』商務印書館、1978)、陳佳華・傅克東「八旗漢軍考略」(『民族研究』1981年第5期、1981)、張晋藩・郭成康『清入関前国家法律制度史』(遼寧人民出版社、1988) pp299~355、第三章第七節「漢軍八旗」、姚念慈「略論八旗蒙古和八旗漢軍的建立」(『中央民族大学学報』1995年第6期、1995)などがあり、日本では浦廉一「漢軍(鳥真超哈)に就いて」(『桑原隲蔵博士還暦記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、弘文堂、1931)、田中克己「対国姓爺合戦における漢軍の役割」(『和田清博士古希記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、講談社、1960)、阿南惟敬「漢軍八旗成立の研究」(『軍事史学』第二巻第六号、1966→同『清初軍事史論考』甲陽書房、1980)、細谷良夫「鳥真超哈(八旗漢軍)の固山(旗)」(『松村潤先生古希記念清代史論叢』松村潤先生古希記念論文集編纂委員会編、汲古書院、1994)などがある
 しかしながら、これら先行研究を見て気付かされることは、火器の技術的発達や普及、明清交代期における火器と火器部隊の役割にのみ関心が集中しているということであり、入関後からアヘン戦争(道光二十年、1840)までの間の清朝における火器の位置はいまだ明確にされているとは言い難い。
 本稿で私は、康熙三十年(1691)に満洲・蒙古旗人によって編成された皇帝直属の火器専門部隊である「火器営」を取り上げたい。火器営は騎馬銃兵(鳥鎗)・砲兵(子母砲)であり、兵力は約6000~7000名であり、主任務は馬上からの鳥鎗射撃と子母砲の運用であった。後で述べるように、火器営は八旗漢軍との区別のため「満洲火器営」とも呼ばれた。
 火器営の設立は清朝軍の火器運用にとって一大変化をもたらしたものであり、本稿では、この火器営の成立事情を中心に論じ、前近代の清朝における火器戦術の受容とその限界について考察したい。なお、論考の目的上、本稿ではアヘン戦争以降の清末における火器営については多くは述べないこととしたい。


第一章 清代の火器とその運用

戻る1  明末清初における西洋火器に言及した論著は枚挙に遑なく、全てを列挙するのは不可能であるから、ここでは特に代表的なもののみ取り上げる。
 総括的な研究としては、有馬成甫『火砲の起源とその伝流』(吉川弘文館、1962)第七章「西洋火器の伝流」と、張小青「明清之際西洋火砲的輸入及其影響」(『清史研究集』第四輯、中国人民大学清史研究所編、四川人民出版社、1986)、王兆春『中国火器史』(軍事科学出版社、1991)第四章~第七章、解立紅「紅衣大砲与満洲興衰」(『満学研究』第二輯、閻崇年主編、民族出版社、1994)などがある。有馬氏にはさらにポルトガルからマ力オを通じて紅夷砲の受容が行われた過程を明らかにした「寧遠城の西洋砲に就て」(『軍事史研究』第四巻第三号、1939)もある。
 
火器の技術発達については、上述の諸論考の他に吉田光邦「明代の兵器」(『天工開物の研究』藪内清編、恒星社、1954)があり、『天工開物』所載の火器を中心に明代後期の兵器の機構や技術発達について解説している。胡建中「清代火砲」正・続(『故宮博物院院刊』1986年第2・4期、1986)と舒理広・胡建中・周静「南懐仁与中国清代鋳造的大砲」(『故宮博物院院刊』1989年第1期、1989)は、故宮博物院所蔵の火砲と諸史料をもとに清代火器の沿革や火器の要目について言及している。
 清初の火砲の受容については、田中宏巳「清初に於ける紅夷砲の出現とその運用」(一)~(四)(『歴史と地理・世界史の研究』78、79、81、82、1973~74)がある。田中氏は、清が紅夷砲の製造と運用に成功し、その力によって入関・中国平定を実現させた事情を明清双方の史料から考察し、その理由を清が東北に存在した漢人による鉱工業と投降火器兵など全ての「漢人諸力」を結集しうる統治能力を有したことに求めている。さらに、同様の問題を扱ったものとして、李鴻彬「皇太極与火砲」(『歴史襠案』 1997年第2期、1997)がある。
戻る2  八旗制度では、満洲・蒙古・漢軍三旗(gūsa)は民族の区別に関わりなく、一旗の旗主(貝勒)に隷属した三つの並列的集団であり、この三つの集団により一旗が形成され、その一旗が八旗を構成していた(王鍾翰「清初八旗蒙古考」(『清史雑考』人民出版社、1957)、姚念慈「略論八旗蒙古和八旗漢軍的建立」(『中央民族大学学報』1995年第6期、1995))。すなわち、八旗が満洲・蒙古・漢軍に分かれているのであり、また清代の史料では、伝記史料を除いて、八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍という呼称が一般的である。従って、筆者は、満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗ではなく、八旗満洲・八旗蒙古・八旗漢軍と称する。
戻る3   八旗漢軍の成立期に関する研究には以下のものがある。中国・台湾では、孟森「八旗制度考実」(『歴史語言研究所集刊』第六巻第四期、1936→同『明清史論著集刊』上巻、中華書局、1959)、陳文石「清太宗時代的重要政治措置」(『歴史語言研究所集刊』第四十巻上、1968)、趙奇娜「清八旗漢軍研究」(『故宮文献』第四巻第二号、1973)、劉家駒「清初八旗漢軍的肇建」(『清初政治発展史論集』商務印書館、1978)、陳佳華・傅克東「八旗漢軍考略」(『民族研究』1981年第5期、1981)、張晋藩・郭成康『清入関前国家法律制度史』(遼寧人民出版社、1988) pp299~355、第三章第七節「漢軍八旗」、姚念慈「略論八旗蒙古和八旗漢軍的建立」(『中央民族大学学報』1995年第6期、1995)などがあり、日本では浦廉一「漢軍(鳥真超哈)に就いて」(『桑原隲蔵博士還暦記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、弘文堂、1931)、田中克己「対国姓爺合戦における漢軍の役割」(『和田清博士古希記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、講談社、1960)、阿南惟敬「漢軍八旗成立の研究」(『軍事史学』第二巻第六号、1966→同『清初軍事史論考』甲陽書房、1980)、細谷良夫「鳥真超哈(八旗漢軍)の固山(旗)」(『松村潤先生古希記念清代史論叢』松村潤先生古希記念論文集編纂委員会編、汲古書院、1994)などがある