「ほう、君は清の遺臣かね?」――避諱にまつわるお話
以下は、院生時代にとある大先生の講義でお聞きしたエピソードです。
ちなみに、大先生と大先生の師匠について詳細は伏せますが、お二方ともWikipediaに項目があるぐらい有名なお方です。
大先生の師匠は『東洋学の系譜』第2集(江上波夫(編著)、大修館書店、1994年)にも載っているお方です。
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清末の漢籍では「寧」の代わりに別体の「甯」という字を使っていた。
大先生は若い頃「甯」を見てカッコイイと思い、普段からなんとなく「寧」の代わりに「甯」を使っていたらしい。
それを見た大先生の師匠は「ほう、君は清の遺臣かね?」と言ったとか。
清末の漢籍で「甯」という字が使われているのは、清の皇帝である道光帝の諱の旻寧を避けたため(避諱)。
大先生の師匠はそれを踏まえて、「ほう、君は清の遺臣かね?」とおっしゃったらしい。
避諱とは、皇帝の諱を口にしたり、諱と同じ字を使用することを避ける風習。
避けるべき字はその王朝を通じて継続され、王朝に忠誠を誓う者はそのルールを守らなければならない。
清の皇帝である道光帝の諱に使われている字の使用を避け、「寧」の代わりに「甯」を使うということは、清に忠誠を誓う証に他ならない。
つまり「清の遺臣」というわけである。
大先生のお話から、なるほど避諱とはそういうものかと感じ入ったのを覚えている。
清朝における避諱のわかりやすい実例はこちらのウェブサイトをどうぞ。
本草綱目に見る『避諱字(ひきじ)』《鈴琳舎優游文庫収蔵書籍》
(2019.6.1閲覧)
ちなみに、実際に「清の遺臣」が清朝滅亡後もなお避諱を守り続けた例がある。
羅振玉は清の遺臣としての立場を固持し続けたが、その彼が民国時代に刊行した本でも避諱が守られている。
1924年に羅振玉が清の檔案史料を選んで活字化(排印)して刊行した『史料叢刊初編』(東方文化学会)での例。
下写真右から3〜5行目の「弘」と「寧」の字の最後の一画が欠けている。
(写真は1964年刊行の文海出版社影印本。写真のページは目次ページ2ページ目。)
最後の一画を書かないことにより、乾隆帝の諱である弘暦の「弘」と道光帝の諱である旻寧の「寧」を避けている。こうした方法を欠筆という。
周知の通り、清は1911年の辛亥革命により滅亡している。
だが、羅振玉はあくまで清朝の臣を自認しており、1924年になってもなお避諱を守り続けていたのである。
同じく『史料叢刊初編』に収録された『太宗文皇帝日録残巻』という史料の冒頭には、「臣 羅振玉」とも記している。
大先生の若い頃、大先生の師匠の時代はまだ清が滅んでから数十年しか経っておらず、遺臣たちも存命していた時代。
そりゃ大先生の師匠も「ほう、君は清の遺臣かね?」とツッコミを入れたくなるわなと。
(※以前は記事タイトルと大先生の言葉を「ほう、君は清朝の遺臣かね?」としていましたが、改めて記憶をたどると、やはり「ほう、君は清の遺臣かね?」だった気がしましたので記事を一部修正しました。)
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参考文献
黃一農・蕭永龍「論道光帝廟諱與古書中「寧」字的寫法」(『文與哲』25、2014年、國立中山大學中國文學系)(2019.6.1閲覧)
(下記リンクをクリックするとPDFファイルがダウンロードされます)
http://www.chinese.nsysu.edu.tw/download.php?filename=578_de58ea58.pdf&dir=publish&title=%E5%85%A8%E6%96%87%E4%B8%8B%E8%BC%89 …
羅振玉(編)『史料叢刊初編』(東方文化学会、1924年)→羅振玉(編)『史料叢刊初編』上・下(文海出版社、1964年)