ロシア人から見たトルグート兵――大北方戦争に現れた騎馬遊牧民

満洲旗人トゥリシェン Tulišen(図理琛)が書いたロシア旅行記『異域録』で面白い記述を見つけたので、つらつらと書いていく。

トゥリシェンは康熙五十一年(1712)ヴォルガ河流域で遊牧するオイラト・モンゴルの一部族トルグート部(トゥルグート部)(現在のカルムイク共和国)への使節団に参加。当時は最短ルートである天山北路(ジュンガリア、現新疆ウイグル自治区北部)が清と敵対するジューンガル部に領有されていたため、迂回ルートのシベリアを経由して、五十三年(1714)にトルグート部のアユキ・ハーンと会見し、五十四年に北京に帰還している。彼は通過したシベリア各地の地理・風俗・政治等につき詳細な報告を行い、雍正元年(1723)に満文・漢文の双方で『異域録』として出版、18世紀シベリアの貴重な記録となっている。

そして、『異域録』には、ロシアとスウェーデンの間で行われた大北方戦争についての記述もある。

なかでも興味深いのは、トルグート部の兵士がロシアへの援軍として大北方戦争に参加していたことが記されていることだ。当時、トルグート部はロシアと同盟関係にあり、スウェーデンとの大北方戦争、トルコとの戦争など、ロシアの行う戦争にしばしば援軍を派遣していた。ロシアがスウェーデン、トルコとの戦争に国力を注ぎ込む中、トルグート部の軍事力の存在感はかなり大きかったらしい。 

シベリア総督マトヴェイ・ペトロヴィチ・ガガーリン Матвей Петрович Гагарин (?~1721)がトゥリシェン等に語ったトルグート兵についての印象が『異域録』に記されている。

我等はガガーリンに向かって、「貴方はモスクワ城に行かれて皇帝[満洲語原文では「cagan han 白いハーン」、モンゴル語・満洲語でのロシア皇帝の呼称、ここではピョートル1世(大帝)を指す]にどこでお目にかかられましたか。貴国のスウェーデン征伐はもう終りましたか」と尋ねると、ガガーリンは、
「我が皇帝には、サンクト・ペテルブルグという城市でお目にかかりました。この城市はもとスウェーデン国の所領でしたが、皇帝が攻め取って城市を作られました。そこで我等の皇帝のお名にちなんで名付けて、サンクト・ペテルブルグと申します。この城市はモスクワ城より立派ですから、我等の皇帝はそこにお住まいです。今年[1714年、清康熙五十三年]、皇帝はスウェーデン国を討伐にお出かけになって、またその二十一艘の船と一人の将軍、八百人の兵士を捕虜になさいました。
今フランスなどの国は、みなスウェーデン国を援助して城市を守っています。これらの国々の兵士を見ますと丈夫ぶりも立派で、軍規は厳しく、戦うたびひたすら前進するのみで退却するようなことはありません。トゥルグート国の兵を見ますと、全く隊伍も組まず、敵と戦うときには、形勢を伺って、あとを追いかけて銃を放ったり、遠矢を射かけたりします。近くに迫ると、逃げることばかりを考えて、抵抗したり、もちこたえる能力が全くありません。もしも運よく敵を破った時には、ただ獲物を手にすることに熱中いたします。十年前、我が皇帝がトゥルグート国のー万の兵を要請して、戦地にお連れになったことがありました。その時トゥルグートの三千の兵を出して、スウェーデン国の三百の兵と戦わせられましたが、ついに破ることはできなかったのです。
 また我が国はさきに、トルコ国のフンカル汗(オスマン・トルコの皇帝)と戦い、彼の国のアゾフという城市を攻め取りました。近々、我が国からまたフンカル汗に使者を沿わして、『互いに和約を結んで、永久に戦うことをやめよう』と会談して定め(プルート条約。一七一一年)、アゾフ城を彼等に返還して、アゾフ城の東北の地を悉く我が国のものとしました。」と言った。

([ ]内、下線部引用者)

『異域録』下巻、トゥルグート国(『異域録――清朝使節のロシア旅行報告』p143-144)

下線部はガガーリンのトルグート部の戦術に関する印象だが、これはスキタイ・匈奴以来受け継がれたユーラシアの騎馬遊牧民の典型的な戦い方と、それに対するロシア人の戸惑いを表したものだろう。

「フランスなどの国は、みなスウェーデン国を援助して城市を守っています。これらの国々の兵士を見ますと丈夫ぶりも立派で、軍規は厳しく、戦うたびひたすら前進するのみで退却するようなことはありません。」。当時のヨーロッパでの戦い方は、厳しい軍規の下、歩兵と騎兵が密集隊形を組んで前進し、敵の射撃を受けてもひるまず進み続けるというものだった。この記述はそうした様子を表していると考えられる。

 

「全く隊伍を組まず」という記述については、こうした当時のヨーロッパでの方陣による密集隊形での戦いとは異なり、騎馬遊牧民は分散して戦う事が多かったことを表していると思われる。トルグート部と同じオイラト・モンゴルのジューンガル部も分散して散兵となり射撃を行う戦術を用いている(斉光「1730年前後の戦争期におけるジュンガルの対清戦略」)。

 

「敵と戦うときには、形勢を伺って、あとを追いかけて銃を放ったり、遠矢を射かけたりします。近くに迫ると、逃げることばかりを考えて、抵抗したり、もちこたえる能力が全くありません。」も実は騎馬遊牧民の常套手段で、敵と離れて対峙し、付かず離れずの距離で矢(鉄砲)を射掛け、敵が離れれば遠矢を射て、敵が接近したら偽装退却しながら矢を放つというものだ。そして敵が消耗したら、一気に包囲殲滅する。

「もしも運よく敵を破った時には、ただ獲物を手にすることに熱中いたします。」というのも、戦利品の獲得を重要な生活手段とする騎馬遊牧民の有り様を表しているのかもしれない。

 

有名な司馬遷『史記』匈奴列伝でも「有利ならば進み、不利ならば退き、遁走を恥としない(利則進、不利則退、不羞遁走)」(『史記』巻一百十、匈奴列伝)とあり、こうした戦い方は概ねどの騎馬遊牧民でも共通しているようだ。

 

「十年前、我が皇帝がトゥルグート国のー万の兵を要請して、戦地にお連れになったことがありました。その時トゥルグートの三千の兵を出して、スウェーデン国の三百の兵と戦わせられましたが、ついに破ることはできなかったのです。」というのは、これだけではどういう状況かわからないが、守りを固めた兵には騎兵だけでは対処が難しいということだろうか。

 

どうやら、当時のヨーロッパ諸国との戦争を見慣れたロシア人には、騎馬遊牧民の戦い方はかなり異質に映ったらしい。

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引用箇所の満文本該当箇所は以下のとおり

(「63b//64a」はページ数を表す。数字が葉、aが表、bが裏を表す。例えば「63b」は 第63葉の裏を示す)

be g’a g’a rin i baru, amban si mosk’owa hoton de genefi,cagan han be aibide acaha,suweni gurun, sifiyesk’o gurun be dailara baita wajihao, akun seme fonjiha de,g’a g’a rin i gisun, meni cagan han be sampiyetir pur sere hoton de acaha,ere boton i ba daci sifiyesk’o gurun i ba meni cagan han afame gaifi hoton weilere jakade, tuttu meni han i gebu ici 63a//63b gebu bufi,sampiyetir pur sehe,ere hoton mosk’owa hoton ci sain ofi,meni han tubade tehebi, ere aniya meni han,sifiyesk’o gurun be dailame genefi,geli terei orin emu cuwan,emu jiyanggiyun jakun tanggū cooha be oljilaha,ne furan cus i jergi gurun gemu sifiyesk’o gurun de aisilame hoton be tuwakiyahabi,ere udu gurun i cooha be tuwaci, haha 63b//64a sain, faiun cira, afara dari urui dosire dahala, bedercere ba akū, turgūt gurun i cooha be tuwaci, umai jalan si akū,balai haru afara de,baran be sabume uthai amcame miyoocalambi, kalbime gabtambi, hanci ome ,damu burulama be bodoro dahala,oron karušara sujara bengsen akū,aikabade jabšan de bata be gidaha sehede, damu jaka bahara be oyonggo obuhabi,juwan 64a//64b aniyai onggolo,meni han, turgūt gurun i eme tumen cooha be baifi, coohai bade gamaha bihe, turgūt i ilan minggan cooha be tucibufi, sifiyesk’o gurun i ilan tanggū cooha i haru afabuci, fuhali gidame mutehekūbi, jai meni gurun, neneme turiyesk’o gurun i gungk’ar han i baru afara de ceni,adzoo sere hoton be gaiha bihe ,jakan meni gurun ci ,geli gungk’ar han de elcin akū ishunde,hūwaliyasun i doro acafi, enteheme dain be nakaki seme gisureme toktobufi, adzoo hoton be cende amasi bufi, adzoo hoton i dergi amargi babe,be gemu gaiha sehe,

(下線部引用者)

(満洲語のローマ字化については、今西春秋『校注異域録』p161-162、阿拉騰奥其爾『清朝図理琛使団与《異域録》研究』p311-312を参照した)

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満文本『異域録』の該当箇所の画像(今西春秋『校注異域録』p300-301)

 

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参考文献(順不同)

(史料)

トゥリシェン(著)、今西春秋(訳注)、羽田明(編訳)『異域録――清朝使節のロシア旅行報告』東洋文庫445、平凡社、1985年

今西春秋『校注異域録』天理大学おやさと研究所、1964年

阿拉騰奥其爾『清朝図理琛使団与《異域録》研究』広西師範大学出版社、2015年

司馬遷『史記』巻一百十、匈奴列伝 (台湾 中央研究院漢籍電子文献、漢籍全文史料庫)(2020年1月12日アクセス)

http://hanji.sinica.edu.tw/index.html

 

(論著)

林俊雄『スキタイと匈奴――遊牧の文明』興亡の世界史2、講談社、2007年

土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』興亡の世界史14、講談社、2007年

サイモン・アングリム等(著)、松原俊文(監修)、天野淑子(訳)『戦闘技術の歴史』1 古代編、創元社、2008年

クリステル・ヨルゲンセン等(著)、淺野明(監修)、竹内喜・徳永優子(訳)『戦闘技術の歴史』3 近世編、創元社、2010年

阿部重雄「ピョートル大帝と北方戦争」(大類伸(監修)、林健太郎・堀米庸三(編集)『ルイ十四世とフリードリヒ大王――絶対主義と継承戦争』世界の戦史6、人物往来社、1966年、p113-166)

斉光「1730年前後の戦争期におけるジュンガルの対清戦略」(『史滴』(40)、2018、p158-143)

中村仁志「 ロシア国家とカルムイク―― 一七-一八世紀」(『 ロシア史研究,』 42 巻、 1986、p. 2-17)、J-STAGE(2020年1月12日アクセス)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/roshiashikenkyu/42/0/42_KJ00001526316/_article/-char/ja/ 

宮脇淳子「トルグート部の発展――17~18世紀中央ユーラシアの遊牧王権」(『アジア・アフリカ言語文化研究 (Journal of Asian and African Studies)』no.42 、1991年、p.71 -104)、東京外国語大学学術成果コレクション(2020年1月12日アクセス)

http://repository.tufs.ac.jp/handle/10108/24021 

宮脇淳子『最後の遊牧帝国――ジューンガル部の興亡』講談社選書メチエ41、講談社、1995年

「Kalmyk Khanate」Wikipedia(英文版)(2020年1月12日アクセス)

https://en.wikipedia.org/wiki/Kalmyk_Khanate

ボリス・エゴロフ「ロシアを強国にした戦争の5つの事実」2018年8月21日 ロシア・ビヨンド(日本語版)(2020年1月12日アクセス)

https://jp.rbth.com/history/80729-roshia-wo-kyoukoku-ni-shita-sensou/amp