西安から上海まで(二) 漢中

 

今回は漢中編をお送りします。

12日夜、夜行バスで漢中へ。13日早朝到着。
 その後、バスを乗り継いで、勉県の武侯祠と馬超墓、定軍山のふもとの武侯墓を相次いで見学。武侯祠の「芳名碑」(寄付金を出した人の名)は日本人の名前が圧倒的に多かったですね。日本での諸葛亮人気のすごさを今更ながらに思い知らされました。
建物の配置や内部は、成都の武侯祠とよく似ていました。
 馬超墓は武侯祠の近所ですが、草がぼうぼうで手入れはあまり行き届いていないようでした。
 そのあと、武侯墓へ。
私、高校時代に『三国志演義』を読んで以来、いつか定軍山の諸葛亮墓に参拝することを夢見ていました。まさに感慨無量!塚の前でしばらく呆然としていました。
 英雄豪傑が覇を競った定軍山も今は静かな農村。見渡す限り緑の山々や、畑が広がっているだけでした。景色を眺めながら一人「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡」という句をつぶやいていました。
 なんか、詩人になってしまいました(苦笑)。
その後、タクシーとバスを乗り継いで漢中市内に戻って、劉邦の居城跡の古漢台や魏延が馬岱に斬られた古虎頭橋を見て回りました。
 古虎頭橋の記念碑は市内の中心の広場に面したショッピングセンターの一階に立っており、隣にはケンタが進出しておりました(笑)ケンタッキー恐るべし!
 記念碑の周りには『三国志 魏延伝』が掲げてあったり、地元の政府の立てた『修虎頭橋碑亭記』がありました。
 特に『修虎頭橋碑亭記』の説明文は魏延に同情的で、要約すれば「諸葛亮は魏延の才能を生かしきれず、楊儀も彼に嫉妬し、それで彼は斬られた」という内容でした。
漢中の人にとって魏延は郷土の英雄なんでしょうか。
(最近の中国の学界でも同様の見解が出てきているようですが)
 その後、上海行きの列車に乗り、漢中を離れました。

 なお、その頃、中国女子サッカーがアテネで惨敗しており、ある評論家が新聞紙上で「街亭は失われた、泣いて馬謖を斬れ!(監督の首を切れ)」と叫んでおりました。
 やっぱり、三国志は今も中国人の心の中に生きているんですねえ。