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二、北京での生活――八つの旗の下で――

 次に、ロシア人への具体的待遇であるが、彼らは北京城内城東北角、東直門内の鑲黄旗の居住地に位置する胡家圏胡同(楜椒園胡同、または胡椒園胡同(1)とも呼ばれる。現、ロシア大使館西側一帯 図一~四参照)に住まわされ、他の八旗兵と同様に住居、俸禄や土地(旗地)を与えられ、他の旗人と通婚することも多かったようである。彼らは辮髪を結い、満洲風の名前を名乗るものもいたが、ロシア人社会内部ではその後もしばらくはロシア名を使い続けたようだ(2)

内城東北角(清代)

(図一)内城東北角(清代乾隆年間)
『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵) より、胡家圏胡同(地図中では「楜椒園衚衕(胡椒園胡同)」 水色のマーカー)と聖ニコライ聖堂(地図中では「羅刹廟」 画像の黄色いマーカー)

「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース  古都北京デジタルマップ
『乾隆京城全図』をGoogle Earthで閲覧http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/
(バージョン1.0 / 2008年7月14日公開) (2008年8月3日アクセス)

 

 『康熙起居注』(3) 康熙二十四年(1685)乙丑十月二十二日己酉の條には

……又戸部題:「投誠羅刹四十人、不足編爲半個佐領、酌量歸入上三旗内」。上曰:「此議亦當。但率領投誠之人不與議叙、實屬可憫。應量給伊等原帶品級」。

……又戸部題す:「投誠せる羅刹四十人、編して半個佐領と爲すに足らず。酌量し上三旗内に歸入せんことを」。上曰く:「此議亦た當なり。但だ投誠を率領せるの人議叙に與(あづか)らざるは、實に憫(あは)れむ可きに屬す。應(まさ)に伊等(かれら)原(もと)帶びたる品級を量り給(あた)ふるべし」

とあり、帝自ら、投降ロシア人を上三旗に編入するだけでなく、彼らのもともと持っていたものと同等の品級(階級)を与えることを命じている。これについてもう少し補足すると、『聖祖實錄』(4) 卷一百十一 康熙二十二年(1683)十一月癸未(十六日)條に

癸未,黑龍江將軍薩布素等疏報:「牛滿河之奇勒爾奚魯,噶奴等,殺十餘羅攜其妻子來歸,鄂羅春之朱爾鏗格等,於淨溪里烏喇,殺五羅剎,並獲其鳥鎗來報。又聞飛牙喀之人,擊殺羅甚衆,應乘此時,酌給新投誠羅吉禮過里,鄂佛那西,馬克西木等官職,舊投誠羅宜番,鄂噶番,席圖頒三人,效力勤勞亦宜給以官職,得旨,宜番,近已授驍騎校,鄂噶番,席圖頒,及新投誠之吉禮過里,鄂佛那西,馬克西木,俱授七品官。其新投誠羅內鄂佛那西,費禮普,令馳驛至薩布素處,酌遣招撫時沍寒,并以裘帽賜之。

癸未,黑龍江將軍薩布素等疏報すらく:「牛滿河の奇勒爾奚魯,噶奴等,十餘の羅剎を殺し其妻子を攜へ來歸す,鄂羅春の朱爾鏗格等,淨溪里烏喇に於て,五羅羅を殺し,並びに其鳥鎗を獲ると來報す。又聞くならく飛牙喀の人,羅剎を擊殺すること甚だ衆(おほ)しと,應(まさ)に此時に乘じ,新たに投誠せる羅剎吉禮過里,鄂佛那西,馬克西木等に官職を酌給すべし,舊と投誠せる羅剎宜番,鄂噶番,席圖頒三人は,效力勤勞し亦た宜しく給ふるに官職を以てすべし」と。旨を得るに,宜番,近く已に驍騎校を授けたり,鄂噶番,席圖頒,及び新に投誠せるの吉禮過里,鄂佛那西,馬克西木,俱に七品官を授く。其の新たに投誠せる羅剎の內、鄂佛那西,費禮普は,馳驛して薩布素の處に至らしむ,酌して遣はすに、招撫せる時は沍寒に値り,并びに裘帽を以て之に賜はしむ。

とあり、二年前の康熙二十二年に投降者、捕虜の宜番(イヴァン)に驍騎校(正六品),鄂噶番(オガファン?)・席図頒(シトゥバン、ステパン?)・吉礼過里(グレゴリ)・鄂佛那西(アファナシェフ?)・馬克西木(マクシム)らに七品官が授けられている。

 さらに、康熙二十六年~同三十二年(1686~93)に、清に滞在し、康熙帝のそば近くに仕えたフランス人宣教師ブーヴェもその著『康熙帝伝』(5)で、

既にモスコー人は清朝所属の韃靼領内に城塞を築いていました。清軍はこの城塞を勝手に占領したのであります。城兵は捕虜になりました。康煕帝は清露の如き国家の野蛮な習俗に従えば敵軍の捕虜を殺戮する筈でありました。しかし康煕帝は彼等に優遇を与えられたのであります。そして帰国を願う捕虜には、食糧さえも供して彼等を残らず本国に送還したのでありました。清軍に加わりたいと懇願する捕虜については、その一部を遼東の首府(盛京)に駐屯させ、残部は北京にお送らせになりました。皇帝はそれぞれ彼等に家と土地と奴僕とを与え、一兵卒にも騎兵の職をお授けになりました。モスコー軍の中で、ある地位を持っていた他の捕虜に対しては、本国におけると同じ官等を与え、しかも本国で貰っていた食祿よりも遙かに莫大な食祿を下賜されたのであります。 ※( )内は引用者注

と記録しており、彼らロシア人捕虜がかなりの厚遇を受けていたことがわかる。

 また、康熙帝は北京に正教(東方正教会・ロシア正教会)の教会を建てることを許し、彼らの信仰を保障した。

 捕虜の中にいた正教司祭マクシム=レオンチェフは、東直門内のとある小さな関帝廟の建物を与えられた。彼はこれを臨時の礼拝堂とし、「聖ニコライ礼拝堂」と名づけた。これが歴史上最初の北京の正教教会である(6)

 康熙三十五年(1696)、レオンチェフとトボリスクのイグナチエフ府主教はこのにわか作りの教会を拡張し、「聖ニコライ聖堂」(聖ソフィア聖堂とも呼ばれる)とした(7)。この聖ニコライ聖堂は清朝側からは「羅刹廟」とも呼ばれた(後述)。

 羅刹廟(拡大)

(図二)羅刹廟
図一の聖ニコライ聖堂(羅刹廟)の部分を拡大。十字架を持つ塔のような建造物も見える。


康熙五十一年(1712)にレオンチェフが死去すると、北京のロシア人は新たな司祭の派遣を求め、1714年、それに応えたピョートル1世(大帝)は北京に伝道団を派遣した(8)

 雍正五年(1727)に締結されたキャフタ条約の取り決めでは、伝道団は10年交代(後5年交代に変更)で北京に派遣され、毎回約4名の聖職者と6名の世俗の者によって構成されていた。

 さらにキャフタ条約では、ロシア伝道団に北京で新たな聖堂を建てることを許しており、これにより北京内城南部の東江米巷(東交民巷)に第二の聖堂「奉献節聖堂」が建設され、こちらは「南館」と呼ばれ、内城北部に位置する聖ニコライ聖堂は「北館」とも呼ばれるようになった(9)

 以後、ロシア伝道団は、紆余曲折を経ながら1955年まで北京で活動を続け、北京の正教布教の中心となった。また、彼らは理藩院(モンゴルなど内陸アジア諸民族を管轄)の監督下でロシア・清朝間の外交事務にも従事するなど、一種の大使館的な役割をも果たしていくことになる(10)。また、このような「ロシア大使館」的な性格から、この伝道団は中国研究・情報収集の拠点ともなり、18世紀以降、ここから多くのロシア人中国学者が巣立っていくこととなる。

 なお、彼らロシア伝道団の布教範囲は、俄羅斯佐領内のロシア人やロシア商人など、概ねロシア人内部に限られ、中国人への布教はほとんど行わなかったようである(11)
さらに、神を「仏」、聖堂を「廟(羅刹廟)」、宣教師を「ラマ」(チベット仏教の僧侶)と称するなどして、清朝や中国社会との摩擦を極力さけるよう努めていた(12)

 こういった努力もあり、雍正年間以後のキリスト教禁止令の影響を受けることはなかったらしい。

内城東北角 胡家圏 

(図三)清末の聖堂と胡家圏胡同
『詳細帝京輿圖』光緒三十四年(1908)(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社 2006)

内城東北角の赤色で示された区画が「俄國館(聖ニコライ聖堂、ロシア伝道団)」。やや南西側に「胡家圏」という地名がある。『乾隆京城全圖』の「楜椒園衚衕」とほぼ同じ位置にあることから、「胡家圏胡同」と「楜椒園衚衕」は同じ場所を指すと考えられる。

内城東北角(現在)

(図四)現在の様子(google earth)

現在の様子。マーカー位置(緯度、経度)は図一と同じ。
胡家圏胡同は現在完全に消失。聖ニコライ聖堂(羅刹廟)はロシア大使館の敷地内に。

「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース  古都北京デジタルマップ
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(バージョン1.0 / 2008年7月14日公開) (2008年8月3日アクセス)

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(1)兪正燮「俄羅斯佐領考」(兪正燮『癸巳類稿』巻九、上海商務印書館、1957年)では「胡家圏胡同」となっており、多くの論考もそれに従っているが、『乾隆京城全圖』(東洋文庫蔵http://dsr.nii.ac.jp/beijing-maps/ 図一、図二) では「楜椒園衚衕」と表記(「楜椒」は「胡椒」、「衚衕」は「胡同」の異体字)。

 まず、『乾隆京城全圖』で聖ニコライ聖堂(羅刹廟)と「楜椒園衚衕」の中間に位置する履親王府について文献をあたると、北京胡同網 襄敏貝子務達海的府邸(2008年8月3日アクセス) http://www.hottoo.com/Article/wf/200712/9834.html及び馮其利『尋訪京城清王府』(文化芸術出版社(北京)2006)のp.138「17 履親王府和植公府的変遷」では、履親王府の西側に「胡家園」があり、東側に池やロシアの東方正教会聖堂があったとしており、「胡家園」は『乾隆京城全圖』の「楜椒園」と同じ位置となる。したがって、「楜椒園」と「胡家園」は同じ場所と思われる(図一参照)。
 次に地名網 北京地名的語音特点(2008年8月3日アクセス)http://www.dmw.gov.cn/newslist.asp?id=3102 によれば、「胡家園胡同」が「胡椒園」に変化した例が紹介されている。このサイトの「胡家園」が「胡家圏胡同」を挿すのかどうかははっきりしないが、「胡家(hujia)」が「楜椒(胡椒 hujiao)」に訛っていた可能性があることはわかる。
 第三に、光緒三十四年(1908)年発行の『詳細帝京輿圖』(『老北京胡同詳細図』中国画報出版社、2006年、図三参照)では内城東北角の「俄国館(聖ニコライ聖堂・ロシア伝道団)」やや南西側、すなわち『乾隆京城全圖』の「楜椒園衚衕(胡椒園胡同)」とほぼ同じ位置に「胡家圏」という地名が記載されている。
ゆえに、「胡家圏胡同」と「楜椒園衚衕(胡椒園胡同)」は同一の場所を指すと考えられる。
(2)劉小萌「関於清代北京的俄羅斯人――八旗満洲俄羅斯佐領歴史尋蹤」『清史論叢』2007年号、中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編、2007年、pp.369~372。また『今日俄羅斯』駐中国ロシア大使館、2005年2月号所収の「俄国在中国的布道団」も、俄羅斯旗人やロシア伝道団の歴史を簡潔に紹介している。
(3)『康煕起居注』中国第一歴史档案館整理、中華書局、1984年。
(4)『清實録』中華書局、1985~87年。
(5)ブーヴェ著・後藤末雄訳『康熙帝伝』平凡社東洋文庫155、 1970年、 pp25~26。
(6)注(2)、p372。
(7)注(6)及び「聖尼古拉教堂」(北京潮訊、宗教活動場所
http://www.btxx.cn.net/bjcr/jdsy/zjhd/j9.htm) (2008年8月4日アクセス)。この教会はこのほかにも「聖母昇天節聖堂」や「教衆致命堂」などさまざまな呼び名があるが、本文では「聖ニコライ聖堂」または「北館」とする。
(8)注(6)及び「アルバジン小史」(Samovarの旅ページアムール流域
http://www.geocities.jp/putniki/ ) (2006年9月23日アクセス)。
(9)注(6)p.372。
(10)澁谷浩一「ロシア帝国外交文書館の中国関係文書について」『満族史研究』第1号、2002年。澁谷氏の論文では、伝道団を窓口にした清露交渉、さらにロシアが伝道団を通じて色々な清朝側文書を収集していたことが紹介されている。
(11)澁谷浩一前掲論文の「表1フォンド62「露中関係」」で紹介されているロシア帝国外交文書の中に中国人洗礼者に関するものが散見されるが、全体から見ればきわめて少数だったと思われる。
(12)注(2)p.373。

 

白い八旗兵――八旗俄羅斯佐領――3