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清寧宮(満文:Genggiyen elhe gung)

 

一、清寧宮とその住人 

 瀋陽故宮の内廷の中心に位置する宮殿で、皇帝と皇后の居住空間、そしてシャーマニズム(中国語で薩満教)の祭祀が行われた場所。鳳凰楼一層の門をくぐると視界正面に飛び込んでくる建物。「口袋房」と呼ばれる建築様式や内部のコの字型オンドル(「万字炕」)など、満洲族の伝統が色濃く反映されている。

 清寧宮は太宗ホンタイジの天聡年間(1627~1635)に建てられ、ホンタイジとその妻孝端文皇后(1599~1649)が暮らした。
孝端文皇后はモンゴルのホルチン(科爾沁)部のマングスの娘で、名はジェレ Jere、 関雎宮の宸妃と永福宮の荘妃(孝荘文皇后、順治帝の生母)のおばにあたる。彼女はホンタイジの三人の娘、皇二女マカタ Makata・皇三女・皇八女を生んでいる。マカタはチャハル部のエジェイに嫁ぎ、エジェイの死後弟アブナイと再婚、皇三女・皇八女はそれぞれホルチン部のキタット(ヒャタド)・バヤスフランに嫁いでいる。孝端文皇后は死後、夫ホンタイジとともに昭陵に合葬されている。 

  

清寧宮(正面から)

清寧宮  正面から(2008年9月撮影)

大清門、崇政殿と同じく五間硬山式の建築様式だが、入り口が正面右側に寄っている。 
清寧宮 南西側から

清寧宮  南西側から(2004年4月撮影)

清寧宮 額(2008年8月撮影)

清寧宮 額(2008年8月撮影) 左 満文:genggiyen elhe gung,, 右 漢文:清寧宮

 

二、清寧宮の建築様式 

 清寧宮の建築様式は大清門・崇政殿と同じく五間硬山式建築で、外観もよく似ている。屋根の黄色と緑の瑠璃瓦、屋頂(大棟)の左右両端に置かれた鴟吻(しふん)、左右の隅棟の走獣、正面(南側)軒下の四角柱や斗拱(ときょう)など、大清門・崇政殿との共通点が非常に多い。

 だが、建物の構造は女真・満洲的要素が濃厚に表れている(平面図参照)。

 

清寧宮の平面図

清寧宮の平面図(『満洲の史蹟』p.207)

 外部から見て最も特徴的な点は、入り口が中央ではなく正面右側(東側)に寄っていること。これは満洲族の伝統的な住居によく見られる様式で、中国では俗に「口袋房」と呼ばれる(口袋は袋・ポケットの意)。

 内部は大きく二つに分かれている。

 東側の小さな二部屋は皇帝・皇后の寝室とされ、夏は涼しい北側の部屋、寒さの厳しい冬は南側の部屋で生活していた。瀋陽は大陸性の気候のため気温の変化が激しく、夏の最高気温は30度以上、冬の最低気温は零下20度以下と、年間の気温差が50度以上にも達する。ホンタイジをはじめとする皇族たちは、北側の部屋と南側の部屋を上手に使い分けることでこうした過酷な気候にうまく適応していたらしい。

 入り口付近と中央・西側へかけての広い空間は、シャーマニズムの儀式が執り行われた場所で、北・西・南の三方の壁にコの字型のオンドル(炕 kang)をめぐらせ、北側にはいけにえの豚を煮るかまどが設けられている(平面図の二つの丸)。三方の壁にコの字型にオンドルを配置するのは、「万字炕」と呼ばれる満洲族の典型的な住居様式で、金代女真の遺跡にも出土例が見られる。

 

万字炕

万字炕を東側から撮影。西側の壁に神龕と関帝像が祭られている。 (2008年9月撮影)

 西側の壁には神龕(しんかん、神棚や仏壇のようなもの)と神像(関帝像)が祭られている。満洲族は西側を上座とするため、神龕や神像は西側の壁に祭られる。

 満洲族のシャーマニズムは多神教で、観音・菩薩・道教の神々など多様な神々をとりこんでいるが、特に関帝(関羽)は武の神・忠義の神として満洲人に厚く信仰され、清朝が中国全土を支配した後には北京の八旗の居住地および全国各地の駐防八旗の居住地(満城)に必ず関帝廟が建立されるほどだった。

 余談ながら、この清寧宮に住んでいたホンタイジも大の『三国志』好きで、日ごろから『三国志演義』ばかり読んでいたため、漢人官僚から「三国志ばかり読んでいては物の見方が偏ってしまいます。政治のためには儒教や歴史の本をもっと勉強してくださいね」などと苦言を呈されている(『天聡朝臣工奏議』上、王文奎條陳時宜奏、天聡六年九月)

 なお、紫禁城の坤寧宮は明代は皇后の住居だったが、紫禁城が清朝のものとなってから清寧宮をモデルに改装され、シャーマニズムの祭祀空間として利用されるようになった。

 

三、祭天 ――シャーマニズムの祭祀――

清寧宮 かまど

かまど(灶)いけにえの豚を煮るのに使用。 (2005年5月撮影) 

 シャーマニズムの祭祀は清代には「祭天」と呼ばれ、文字通り天の神を祭るものだった。まずサマン(シャーマン)が神歌を歌いながら舞い踊って天の神や関帝を称え、次にいけにえの黒豚を殺してかまどで煮る。なお肉を煮るときには調味料を一切加えない。煮えた肉はまず神龕に供え、それから君臣がともに肉を分け合って食べる。いけにえの肉は「神肉」・「福肉」などと呼ばれ、これを分け合って食べることは、満洲の神と皇帝(愛新覚羅一家)と臣下の間に一種の家族関係が結ばれることを意味し、同時に『満漢一家』・『一心一徳』を唱える清朝にとっての重要なパフォーマンスでもあった。

 この儀式は北京の故宮の坤寧宮においても行われていたが、北京で生活し、舌が肥えた臣下たちにとって、味付けされていない豚を食べるのはかなり苦痛だったようで、懐に忍ばせた塩をこっそり振りかけて食べる者もいたらしい。  

 屋内での儀式が終わると、先ほどのいけにえの豚の肉に米などを混ぜ、清寧宮正面にある「神杆(索倫杆)」と呼ばれるポールの頂上の錫でできた円斗(碗のようなもの)に盛り、皇室の祖霊とされたカササギに捧げた。

 初代皇帝ヌルハチの一代記である『満洲実録』冒頭には、カササギがくわえていた赤い実を食べた天女が身ごもり愛新覚羅氏の始祖を産んだという始祖神話や、先祖が反乱者に追われたとき「神のカササギ」に助けられたという伝説が記されており、清代にはカササギが一種のトーテムとして神聖視されていた。

 

神杆(索倫杆)

神杆(索倫杆) (2008年9月撮影)

 

【追記】写真のキャプションを手直ししました(2017.11.11)

参考文献・サイト(順不同)

(参考文献)

(史料)
『天聡朝臣工奏議』(『奏疏稿』)羅振玉編『史料叢刊初編』、1924年 →(影印本)文海出版社、1964年
細谷良夫「校訂『天聡朝臣工奏議』天聡六年」細谷良夫編『中国文化とその周辺』東北学院大学中国学研究会、1992年、pp.349~407
(※羅振玉本は誤字、省略及び変更箇所が多いので要注意、校訂や他の写本もあわせ読むこと)
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

(著作・論文)
(中国語文献)(著者名ピンイン順)
杜家驥 『清朝満蒙聯姻研究』人民出版社、2003年
羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005年
孫文良・李治亭『清太宗全伝』吉林人民出版社、1983年
佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
呉十洲『乾隆一日』山東画報出版社、2006年
張玉興「論清兵入関的文化背景」『清史研究』1995年第4期→同著『明清史探索』遼海出版社、2004年、pp.122~139

(日本語文献)(著者名五十音順)
楠木賢道「清初、入関前におけるハン・皇帝とホルチン部首長層の婚姻関係」『内陸アジア史研究』14、1999年、pp.45~63
松村潤「清初盛京の宮殿」『研究紀要』第四号、日本大学文理学部人文科学研究所、1962年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社、2008年、pp.87~118
松村潤「清太宗の后妃」『国立政治大学辺政研究所年報』第三期、1972年 → 松村潤『明清史論考』山川出版社、2008年、pp.198~216
村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年