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年代:丁亥年(1587年、明万暦十五年)
今西春秋「Jušen国域考」から引用の画像以外は『満洲実録』第二巻から


 丁亥年(1587年、明万暦十五年)、ヌルハチは地元スクスフ部をほぼ平定したのを機に、政権の基礎固めを行なっている。 
 第一に、フェ=アラ Fe Ala城(旧老城、二道河子城、現遼寧省撫順市新賓満族自治県)の築城、第二に政治・法律制度の整備である。
 
 第一に、フェ=アラ城について説明する。
 フェ=アラ城はヘトゥ=アラ城(興京老城、新賓満族自治県)の南方、ギヤハ河Giyaha bira(嘉哈河)とギヤハ河支流のショリ河 Šoli biraの合流点にはさまれた地点に位置する。

旧老城(二道河子城)図
フェ=アラ城(旧老城)とヘトゥ=アラ城(興京老城)の位置関係。
今西春秋「Jušen国域考」p.16 第1図 Suksuhu(蘇克素護)部境域図 付 旧老城図

Google Mapsによる現在の衛星写真(マイマップ。下記URL)。
http://g.co/maps/u9ryh
南側のマーカーがフェ=アラ城、北側の家型マーカーがヘトゥ=アラ城。

 

 フェ=アラ城は山の北側斜面を利用し、内城、外城、さらに外側の套城の三重の城域が階段上に造成された梯郭式の平山城であった。
 内城の城壁は海抜260m前後の斜面を囲むように築かれ、外城の城壁は麓の海抜200mの等高線にそって存在した。套城は後に拡張されたものである。内城にはヌルハチの居館と三軒の楼があり、ヌルハチとその親族が居住し、外城にはヌルハチの有力な臣下とその一族たちが暮らしていた。
 ヌルハチはこの時期から配下部将の集住政策を推し進めており、フェ=アラ城から三、四日行程の範囲内に居住する村落(ガシャン gašan)の首長とその一族郎党に外城内部と外城外部に集住するよう命じている。

 河川の合流点にある小高い丘に造成された、内城、外城の両部分により構成される城郭はフェ=アラ城以外にも多く存在する。ヌルハチが後に築いたヘトゥ=アラ城、ジャイフィアン城、サルフ城も同一形式の城である。このような山城は女真(ジュシェン)社会において伝統的な形式であったようで、金代女真の山城においても多数見られる。
 また、内城内のヌルハチの居館及び三軒の楼は全て周囲より高い盛土の土台上に築かれていた。これは後に瀋陽に造営された宮殿、即ち現在の瀋陽故宮の建築様式とも共通している。

 第二に、政治・法律制度の整備である。
 ヌルハチは
同年六月に政治・法律制度を定めている。
 『満洲実録』の記述によると、六月二十四日に「国政 gurun i doro」を定めている。史料の制約により、具体的な内容については不明だが、満洲語の「doro」という単語には、政治だけでなく礼、
道、道理という意味も含まれているので、「国政 gurun i doro」は国の基本的制度及び施政方針を意味すると思われる。
 同時に法令を施行し、悪行、騒乱、窃盗、詐りを禁じている。
 挙兵後わずか四年あまりしかたっておらず、いささか早すぎる感もあるが、急速な勢力拡大に伴い、統治体制整備の必要に迫られたのだろう。

 その後、ジェチェン部のアルタイ Artai(阿爾泰)を攻め、その山寨を攻め取り、アルタイを殺した。

eidu baturu bardai hoton be gaiha,,

・左枠
[満:eidu baturu bardai hoton be gaiha,,(エイドゥ=バトゥルがバルダの城を取った) ]
[漢:額亦都克巴爾達(額亦都、巴爾達を克す)]
[蒙:        ]

・挿絵:右側の城壁上で弓を射る人物
満:eidu(エイドゥ)
漢:額亦都 

 

 八月、ヌルハチは部下のエイドゥ Eidu (額亦都)に命じ、スクスフ部のバルダ城 Bardai hoton (巴爾達城)を攻撃させた。
 バルダ城に向け進軍する途中、渾河を渡ろうとしたが増水していたので、兵士の首を縄を結び、流されないようにして河を渡りきった。河を渡りきった後、五、六人の精鋭を選び、バルダ城の城壁に梯子を掛けて夜襲をかけた。
 エイドゥは城壁上で戦い、五十に近い傷を負ったが、退かずに戦い、城内の者は逃げ去り、城を攻め取った。

 エイドゥ(1562~1621)はアン=フィヤング同様、ヌルハチの挙兵当初から従った武将である。エイドゥは元々長白山地方のニオフル Niohuru 氏(鈕祜禄氏)出身だが、幼くして両親を殺されたため、十三歳の頃父方のおばの元に身を寄せていた。エイドゥが十九歳の頃、たまたまヌルハチがおばの家に立ち寄った時、ヌルハチを「真の主」と見込んで仕えたという。なお、エイドゥのおばとは、ヌルハチ挙兵直後に殺されたガハシャン=ハスフ (ヌルハチの妹の夫)の母でもある。

 エイドゥはこのバルダ城攻めの手柄により、バトゥル baturu(巴図魯、満洲語で「勇者」の意)の称号を授けられた
 以後、エイドゥはヌルハチを助けて縦横無尽の活躍を続け、後には、アン=フィヤング An Fiyanggū、フィオンドン Fiongdon(費英東)、ホホリ Hohori(何和礼)、フルガン Hūrgan という武将たちとともに「五大臣」の一員としてヌルハチを補佐することになる
(『八旗通志』(初集)巻一百四十二、名臣列伝二、鑲黄旗満洲世職大臣二、額亦都巴図魯 )。

taidzu jahai be dahabuha,,

・左枠
[満:taidzu jahai be dahabuhe
,,(太祖がジャハイを降伏させた) ]
[漢:太祖招撫扎海(太祖、扎海を招撫す)]
[蒙:        ]

・挿絵:中央で跪く人物
満:jahai(ジャハイ)
漢:扎海 

 

 その後、ヌルハチ自ら兵を率い、フネへ部のドゥン城 Dung ni hoton(洞城)を攻め取り、城主のジャハイ Jahai(扎海)を投降させた。
 ジャハイは明にもよく名前の知られた土豪で、撫順馬市にもたびたび出かけていたらしい。ジャハイは一時期ヌルハチに敵対していたが、結局は敗北して家族とともにハダに亡命して保護を求めた。ところがヌルハチはこれを口実にハダ部に出兵したので、明はハダ部のダイシャン Daišan 代善(ヌルハチの息子のダイシャンとは別人)にヌルハチとの和解を勧め、紛争の種であったジャハイを故郷に帰還させた。ヌルハチがジャハイを攻撃したのはその直後だった(松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』)。

 翌戊子年(1588年、明万暦十六年)、四月にヌルハチはダイシャンの妹アミン=ジェジェ Amin Jeje(阿敏哲哲)を妻に迎え、 ハダ部と正式に和解しているが、これについては次回取り扱う。

 なお、この年(1587年、万暦十五年)十一月に、明中央の記録史料である『神宗実録』にヌルハチの名が初めて登場する。
 明『神宗実録』万暦十五年十一月己丑(四日)条に掲載された明の遼東巡撫顧養謙の上奏はヌルハチについて次のように記している。

奴兒哈赤益驕而為患
奴兒哈赤(ヌルハチ)益々驕りて患を為す

 明側はこの時点ですでにヌルハチを警戒の目で見ていたようだ。


(つづく)

・・・・・・
史料・参考文献
史料
『八旗通志』(初集)東北師範大学出版社、1985年
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
今西春秋「Jušen国域考」『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所、1967年
臼杵勲「女真社会の総合資料学的研究――その成果と展開」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
木山克彦「ロシア沿海地方金・東夏代城址遺跡の調査」『北東アジア中世遺跡の考古学的研究 平成十五・十六年研究成果報告書』2005年
木山克彦「ロシア沿海州における金・東夏代の城郭遺跡」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版 2008年
木山克彦「シャイガ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
木山克彦「ノヴォパクロフカ2城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
木山克彦「ニコラエフカ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
増井寛也「建州統一期のヌルハチ政権とボォイ=ニャルマ」 『立命館文學』第587号、2004年