第二章 康熙三十年以前の「火器営」

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はじめに

 

 火器営(満洲火器営)とは、一般に康熙三十年(1691)に満洲・蒙古旗人によって編成された火器専門部隊であるとされているが、康熙三十年以前の史料にも「火器営」はしばしば登場する。例えば『聖祖實録』卷一百三十七、康熙二十七年(1688)十一月丁丑(八日)條には、

 

上幸晾鷹臺、講武、閲火器營兵演放火器、……

 

と見え、『親征平定朔漠方略(以下『朔漠方略』と略称する)』卷六、康熙二十九年(1690)六月戊寅(十九日)の條には、

 

命増派禁軍、及外藩兵。
上諭曰:「……議政王、貝勒、大臣其集議。」、議曰:「……又漢軍火器營兵亦應派發、其官兵作何撥出。應令總管火器營都統請旨。」、奏入。上諭曰:「……再派出漢軍都統國舅佟國綱、都統諾邁。凡派發火器營兵之事、令彼請旨。……餘如所議。」。

 

とあり、これ以後『朔漢方略』には「漢軍火器営」という名が頻出する。では「火器営」・「漢軍火器営」とは一体いかなる部隊なのであろうか。この問題は、火器営の設立時期はもちろん火器営の組織形態にも関わる問題である。よって、本章ではこの「火器営」について考察を加えて行きたい。

 

 

 

第1節 「火器営」の史料初出及び編成時期、その構成員

 

 〔清朝史料上の「火器営」の初出は『太宗實録』卷五、三年(1629)十一月辛丑(二十日)條に、

 

上立德勝門外、審視虛實、諭火器營兵、進前發礮火

 

とある。
 次いで同じく『太宗實録』卷六、三年(1629)十二月丁丑(二十七日)條には、

 

上與大貝勒代善、莽古爾泰、貝勒阿巴泰、阿濟格、多爾袞、多鐸、杜度、率護軍、及火器營兵五百名、往視薊州情形。

 

と見える。
 これらは第一章で触れた北京進攻作戦(己巳虜変)の際に
太宗ホンタイジが「火器営兵」を率いたという記述である。
 しかし、張建・劉小萌両氏は、これらの記述につき、『太宗實録』の原史料である『満文原檔』及びその写しである『満文老檔』の記述に基づき、『太宗實録』の誤りであるとしている。
 前者の天聡三年(1629)十一月辛丑(二十日)條にある「火器営兵」は『満文原檔』の該当箇所では「mūsei poo sindara niyalma (我らの砲を放つ人)」、『満文老檔』でも「musei poo sindara niyalma
 (我らの砲を放つ人)」とある。
 後者の天聡三年(1629)十二月丁丑(二十七日)條の「火器営兵」は『満文原檔』では「bayara poo i cooha
(バヤラ(護軍)の砲の兵)」とあり、これも「火器営」という部隊としての記述はない。
 また、張・劉両氏は当時の火器兵は八グサ(八旗)から抽出されたもので女真人(満洲人)、漢人が含まれ、後世の火器営のような独立編制ではなかったことを論証している。故に、張・劉両氏は『太宗實録』に現れる「火器営」は後代の漢文史料の憶測による記載と指摘している(張建・劉小萌「清入関前火器営献疑」(天津師範大学学報(社会科学版)2018年第3期))。
 筆者もこの結論に首肯する。上記の記述に登場する「火器営」は無視してよいと考える。〕

 

 まず、管見の限り史料上の八旗における「火器営」の初出は、『康熙起居注』(1)『康熙起居注』(中国第一歴史檔案館整理、中華書局、1984)康熙二十四年(1685)乙丑、四月二十五日甲寅條に、

 

又兵部題:「火器營毎旗添設參領一員、驍騎校二員」。上曰:「爾等之意若何。」。明珠等奏曰:「火器所關最爲緊要、況旗下無職掌間散章京頗多、似應將伊等補授管理。」。上曰:「此事着議政王、貝勒、大臣會議具奏。」。

 

とあるものである。この史料から窺えることは、康熙二十四年当時、「火器営」が八旗の各旗毎に組織され、その指揮官として参領・驍騎校が存在したことである。
 次に、その編成時期であるが、『康熙起居注』康熙二十二年(1683)癸亥、五月初五日丙午條及び、同十八日己未條には、

 

……又僉都御史陳汝器條奏:「毎旗應添設一營、操練火器」事。上曰:「這條奏甚是。況漢軍兵丁不能騎馬者甚多。毎旗應設一營、操練火器。著議政王、員勒、大臣會議具奏。」……。
十八日己未、……又議政王、貝勒、大臣等會議、八旗漢軍馬兵、鳥鎗手、毎佐領增十八人、共二十人、演習鳥鎗事。上顧大學士勒徳洪曰:「火器關係武備甚爲緊要。應嚴加操演、以裨實用。爾與學士阿蘭泰、薩海、佛倫可會同八旗漢軍都統詳議。」。(2)『聖祖實録』卷一百九、同日條にほぼ同文の記事あり。『清史稿』(点校本、中華書局、1977)卷七、聖祖本紀二、康熙二十二年五月丙午(五日)條にも「五月丙午、設漢軍火器營」とある。

 

とあり、康熙二十二年(1683)五月に、1ニル niru(佐領)(3)本稿では以下、組織体としての佐領(niru)をニルとし、その管理者としての佐領( niru i janggin)は佐領とし、同一名称による混乱を避けることにする。毎に20名を選び、各旗毎に部隊を編成し、鳥鎗を操練させたと述べている。管見の限り、この史料より以前には、八旗において「火器営」と呼ばれる部隊が存在したと述べる史料は見られないことから、康熙二十二年(1683)五月を京旗における「火器営」の編成時期として大過あるまい。
 では、この「火器営」とは八旗のいかなる旗人によって構成されていたのであろうか。先ほど挙げた『康熙起居注』康熙二十二年癸亥、五月初五日丙午條に「……況や漢軍の兵丁は馬に騎る能はざる者甚だ多し。旗毎に應に一營を設け、火器を操練せしむべし。……」とあり、同十八日條には「……又議政王、貝勒、大臣等、八旗漢軍の馬兵の鳥鎗手、佐領毎に十八人を増し、共に二十人とし、鳥鎗を演習せしめん事を會議す……。」と見えていることから、この部隊が満洲・蒙古旗人ではなく、漢軍旗人によって編成されていたことが分かる。
 ここにおいて、康熙三十年(1691)以前の「火器営」と康熙三十年に編成されたとされる火器営とは全く別の部隊であることが、これらの史料から導き出されるのである。そして、この「火器営」は漢軍旗人によって編成されていることから、本章冒頭で掲げた『朔漢方略』に見える「漢軍火器営」と同一の部隊である可能性が高い。よって、本稿では以下、この「火器営」を漢軍火器営と呼ぶことにする。
漢軍火器営設立の背景ならびに要因について、当時の状況から類推すれば、

 

①三藩の乱平定にともなう旧三藩兵の漢軍編入により、旗人が増大したこと。
②当時、懸案であった対口シア防衛体制の整備。
③西洋宣教士との交流による、康熙帝の火器への関心と理解。

 

などが挙げられるが、次節で述べるようにその装備・戦術において既存の八旗漢軍と大きな相違が存在しないことも考え合わせれば、①・②の要因による精鋭部隊の必要性に応えるべく編成されたとすることができよう。

 

 

 

第2節 漢軍火器営の兵力・装備

 

 軍隊の組織形態を考察する上で、兵力と装備がその大前提となることは言を俟たない。
まず、兵力であるが、第1節で明らかにしたように、漢軍火器営は、八旗漢軍各ニルから20名が選抜され、八旗に各1営、合計8営が編成された火器専門部隊である。従って、兵力の算定には、当然、八旗の最下部機構であり、兵丁動員の基本単位でもあるニルの数が基礎とならねばならないが、残念ながら、康熙年間における漢軍各旗のニル数について明確な史料は、現在の所発見されておらず、清朝自身も八旗全旗のニル数を正確には把握してはいなかったようである(4)八旗のニル数について、康熙・雍正『大清會典』(共に天理図書館蔵)では、わずかに「凡例」で、八旗士馬雲屯、難以數計。とするのみであり、清朝自身も完全には把握していなかったようである。なお、康熙『大清會典』卷二十三、戸部七、編審八旗壯丁によれば、康熙年間には1ニルは原則として、130~140名の壮丁によって編成された。

 八旗の全ニルに関する根本史料とされる『八旗通志』(初集)旗分志(5)『八旗通志』(初集)、卷十三~十六、旗分志十三~十六によれば、雍正九年(1731)時点での八旗漢軍全260ニルの内、45ニルは、三藩の乱平定(康熙二十年1681)前後の康熙十八年~二十三年に旧三藩兵を受け入れて編成されている。この旧三藩ニルを除くほとんど全てのニルは入関前後の編成に係っている。も、ただ雍正年間における八旗再編成以後に残存したニルの来歴を記録したものに過ぎないが(6)雍正年間のニル再編成については、細谷良夫「八旗通志初集『旗分志』編纂とその背景-雍正朝佐領改革の一端-」『東方学』第三十六号、1968)、「八旗通志初集『旗分志』のニル表記とニルの名号呼称」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1984)、「清朝中期における八旗漢軍の再編成」(『清代中国の諸問題』石橋秀雄編、山川出版社、1995)などの論考がある。、本稿ではひとまずこれにより、漢軍火器営設立当初のおおよその兵力を算出しておきたい。
 康熙二十二年(1683)の設立当初は旧三藩兵の八旗漢軍編入が相次ぎ、容易にニル数を算出することは出来ないが、編入がほば終了した康熙二十三年(1684)の漢軍佐領数は255ニルであり、のち康熙三十二年(1693)に1ニルが増設されている。これに1ニル当たりの兵丁数20名をかければ、総兵力は約5100名となる。そしてこれを8で割れば、漢軍火器営一営当たりの兵丁は約638名となる〔小数点第1位四捨五入〕
次に、漢軍火器営の装備とその供給、及び戦術形態であるが、管見の限り、既存の八旗漢軍との相違を示す史料は特に見出せず、やはり鳥槍と重砲を装備した歩兵主体の火器軍であったと考えられる。

 

 

 

第3節 漢軍火器営の組織

 

 康熙二十九年(1690)成立の『大清會典』卷八十一、兵部一、旗員品級には、領侍衛内大臣を筆頭として、八旗の各官職の品級が規定されており、正三品に「火器営協領」、正四品に「火器営参領」、正五品に「火器営操練尉」が記載されている。しかし、これだけでは要領を得ないので他の史料に手がかりを求めれば、当時の漢軍旗人、金徳純の著した『旗軍志』(7) 『旗軍志』(影印本、『昭代叢書』乙集、卷十、上海古籍出版社1990)金徳純は、『八旗文經』(光緒二十七年(1907)刊、京都大学人文科学研究所蔵)卷五十七と『清史稿』卷四百八十四、列傳二百七十一、文苑一などの伝によれば、順治、康熙年間頃の正紅旗漢軍の人であったようである。に、

 

後復允左僉都御史陳汝器請增火器一營。毎旗選馬軍精健者五人抜二、一佐領得二十人、置操練尉二員、正五品。副尉、正六品。一旗置參領一員、正四品、統領一員、正三品。四旗置副都統四員、都統一員、即命馬軍都統、副都統兼任其事。平時、月四五出練於郊。

 

と見える。この史料を要約すれば、漢軍火器営の指揮官は、副都統4名、都統1名が4旗毎に置かれ、馬軍すなわち八旗驍騎営の漢軍都統・副都統が兼任し、その下に各旗にそれぞれ火器営参領・火器営操練尉2名・副尉が置かれ、それぞれ兵丁20名を統率したということである。以下(a)(総管火器営)都統・副都統、(b)(漢軍)火器営協領・火器営参領・火器営操練尉について、考察を進めて行きたい。

 

(a)(総管火器営)都統・副都統

 

 前述のように漢軍火器営の指揮官は、都統1名が4旗毎に置かれ、八旗驍騎営の漢軍都統・副都統が兼任していた。すなわち漢軍火器営には2名の指揮官が存在したわけである。八旗を等分して4旗ずつに区分する場合、鑲黄旗・正白旗・鑲白旗・正藍旗を左翼四旗、正黄旗・正紅旗・鑲紅旗・鑲藍旗を右翼四旗とするのが通例である。
まず、左右翼の都統は康熙二十九年(1690)六月、ジューンガル部のガルダンの南下に対して、康熙帝が下した動員令にその名が見える。『朔漠方略』卷六、康熙二十九年(1690)六月戊寅(十九日)條には、

 

命增派禁軍、及外藩兵。
上諭曰:「……議政王、貝勒、大臣其集議」、議曰:「……又漢軍火器營兵亦應派發、其官兵作何撥出。應令總管火器營都統請旨」、奏入。上諭曰:「……再派出漢軍都統國舅佟國綱、都統諾邁。凡派發火器營兵之事、令彼請旨。……餘如所議」。

 

とある。
 この総管火器営都統は『旗軍志』に見える「都統」と同一と考えられるから、康熙二十九年当時、鑲黄旗(左翼)漢軍都統、内大臣であった佟国綱、鑲藍旗(右翼)漢軍都統諾邁によって漢軍火器営が率いられ、佟国綱は鏤黄旗の属する左翼四旗を、諾邁は鍵藍旗の属する右翼四旗の漢軍火器営兵を指揮していたと思われる。
 さらに、この史料からは、皇帝→議政王大臣会議(清朝の最高意思決定機関) (8)神田信夫「清初の議政大臣について」(『和田博士還暦記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、講談社、1951)〔→同『清朝史論考』山川出版社、2005〕。→「漢軍火器営」という指揮系統の存在をも知ることができる。 このように、漢軍火器営は皇帝に近い位置にあり、従ってその重要性と清朝側の期待は極めて大きかったと考えられる。
 なお、漢軍火器営の編成当初の総指揮官は、管見の限り史料からは窺い得ないが、佟国綱は、康熙二十年(1681)五月より、諾邁は同年十一月よりそれぞれ都統の地位にあり(9)『聖祖實録』卷九十六、康熙二十年(1681)五月庚申(八日)條、卷九十八、同年十一月甲寅(五日)條。、彼らが同二十二年の編成時より指揮を取っていたことも考えられる(10)なお『清史列傳』(王鍾翰点校、中華書局、1988)卷十、大臣畫一傳檔正編七、佟國綱には、「‥‥‥〔康熙〕二十年、授鑲黃旗漢軍都統。二十二年、充教習鳥槍兵丁總管‥‥‥。」と見え、下線部は、漢軍火器営の指揮官職と関係していると思われる。
 特に佟国綱は、前章で述べた佟図頼の長子であり漢軍都統でもあったから、火器戦術に対しかなりの知識を有していたと考えられるし、「国舅」という文字が示すように帝の生母佟貴妃の兄であり、かつ康熙帝の信頼厚い側近であった(11)第一章注(7)及び『八旗通志』(初集)卷一百四十三、名臣列傳三、佟國綱。。従って、当時の清朝において漢軍火器営の総指揮官として、彼ほどの適任者はいなかったといえる。
ウラーン=ブトンの戦い〔後述〕での佟国綱の戦死以後から、康熙三十五年(1696)のモンゴル親征に至るまでの間の総指揮官は、方略などの諸史料には明記されておらず不明である。ただ『朔漠方略』卷二十二、康熙三十五年(1696)四月癸卯(十八日)條には、

 

駕至席喇布里圖駐蹕。
命皇長子胤禔、内大臣索額圖、總領前軍。
上諭内大臣索額圖曰:「朕今日至此、見漢軍猶未起營、如此必致悞事。伊等倶不足恃、應派此處大臣統領而行。」。索額圖隨將内大臣以下、侍郎以上職名入奏。得旨:「前行八旗前鋒兵、漢軍火器營、輿四旗察哈爾兵、及緑旗兵行走、統領不可無人。著皇長子、興爾親行前往、統領行走。朕十九日、在今日所駐席喇布里圖地方停留。漢軍火器營、察哈爾兵、緑旗兵、令十九日在今日所駐之西巴爾台布喇克地方停留、以候皇長子。皇長子在漢軍火器營内駐扎。八旗前鋒照常行走、毎旗派出前鋒二名、並酌派該管官、護衞皇子。所派前鋒、必於十九日、遣往西巴爾台布喇克地方。其八旗前鋒、漢軍火器營、察哈爾兵、緑旗兵、倶著於抱陵布喇克地方停留、等候御營。」。

 

とあり、康熙帝の寵臣であった領侍衛内大臣ソンゴトゥ(索額図)と皇長子胤禔に、帝自ら率いる中路軍の八旗の前鋒兵(満洲・蒙古旗人から選抜した騎兵の最精鋭部隊)と内モンゴルのチャハル(察哈爾)兵、および緑営兵からなる前衛部隊と漢軍火器営兵の総指揮権を与える帝の諭が記されていることから、モンゴル親征当時には、この両者が総指揮を執っていたと恩われ、このことからも漢軍火器営への、康熙帝の期待の大きさが見て取れる。
 なお、康熙三十六年(1697)以後の漢軍火器営の総指揮官は管見の限り、不明である。
 次に副都統であるが、先ほどの『旗軍志』によれば左右翼の(総管火器営)都統の下に副都統4名、計8名が置かれ、馬軍すなわち八旗驍騎営の漢軍都統・副都統によって兼任されていた。8名という数から考えれば、彼ら副都統が、各旗の漢軍火器営の事務を担任していたのであろう。
 この問題について、『聖祖實録』卷一百四十、康熙二十八年(1689)閏三月甲辰(七日)條には、

 

命八旗漢軍副都統田象坤、張俊、色格印、科爾代、蘇曷、郎化麟、喩維邦、張朝午等、各兼管本旗火器營事。

 

とある。この八旗漢軍副都統は、漢軍火器営の副都統とは同一の官職ではないが、漢軍火器営の副都統が8名置かれたことからみれば、八旗漢軍副都統(八旗漢軍都統の下に2名、計16名)の内8名が、漢軍火器営副都統を兼任した可能性が大きい。

 

(b)(漢軍)火器営協領・火器営参領・火器営操練尉

 

 火器営協領・火器営参領については、管見の限り、康熙『大清會典』と『旗軍志』以外の史料からは手がかりを見出せない。
火器営操練尉については、『聖祖實録』卷一百四十、康熙二十八年(1689)三月丁酉(三十日)條に、

 

増設火器營操練官各五員、派毎旗副都統一員兼管。

 

とあり、火器営操練官が5名に増員され、八旗漢軍毎旗から副都統1名が派遣され、彼らの管理にあたったことがわかる(12)『清史稿』卷七、聖祖本紀二、同日條に、「丁酉、増設八旗火器營、副都統領之。」とあるが、これは火器営の後の「操練官〔操練尉〕」が脱落したものであろう。
 なお、『八旗通志』(初集)旗分志に記載された漢軍各旗下各ニルの歴代の佐領の原職にこれらの官職が時折見受けられ、漢軍の佐領職との間に一定の人事交流があったことが知られる。
 以下、その例を挙げれば、同書、卷十四、旗分志十四、正紅旗漢軍都統第二參領所屬第五佐領には、

 

第五佐領、……劉振故、以火器營協領王廷諫管理。……。

 

とあり、同じく旗分志十五、鑲白旗漢軍都統頭參領所屬第三佐領には

 

第三佐領、……祖植春年老辭退、仍以火器營協領祖良臣管理。……。

 

旗分志十四、正白旗漢軍都統第三參領所屬第一佐領には、

 

第一佐領、……徐九如陞任浙江黄嚴總兵官、以火器營參領王以謙管理。……。

 

と見え、同書卷十六、旗分志十六、正藍旗漢軍都統第五參領所屬第六佐領には、

 

第六佐領、……韋燦縁事革退、以操練尉王傑管理。……。

 

とある。
 以上、やや冗長にわたったが、漢軍火器営の機構はほぼ明らかにできたと思う。 組織形態について注目されるのは、それ以前に八旗満洲・蒙古の精鋭を選抜して編成されたバヤラ bayaraや前鋒営・護軍営(13)バヤラ・前鋒営・護軍営の成立史及び機構に関する研究には以下のものがある。鴛淵一「清初擺牙喇考」(『稲葉博士還暦記念満鮮史論叢』同論叢編纂会編、発行、1938)、阿南惟敬「清初バヤラ新考」(『史学雑誌』第八十編第四号、1971→同『清初軍事史論考』甲陽書房、1980)、石橋崇雄「清初バヤラの形成過程-天命期を中心として-」(『中国近代史研究』第一号、1981)、「清朝八旗制下における職官名の漢字表記改称時期―特に bayara及びgabsihiyan関係の職官名を中心として―」(『中国近代史研究』第八号、1988)。との共通性を有していることである。前鋒営・護軍営は、満洲・蒙古各ニルから兵丁を選抜し、旗毎に任じられた前鋒参領・護軍参領、さらに全体を統括する前鋒統領・護軍統領に隷属し、さらに議政王会議と皇帝に従属していた。
 本節での考察結果に基づいて(図3)「漢軍火器営組織図」を作成した〔本組織図は修士論文掲載の組織図の内容に基づき修正を加えて作成した〕。以下、本文と併せて参照されたい。

(図3)「漢軍火器営組織図」

第4節 「火器兼練大刀営」について

 

 ところで、康熙『大清會典』には、「火器営」もしくは漢軍火器営という部隊の記載はなく、ただ「火器兼練大刀営」なる部隊の存在が記述されているのみである。以下、康熙『大清會典』卷八十一、兵部一、八旗官制から引用する〔[ ]内は史料の割注、以下同〕

 

管領火器兼練大刀營 [漢軍官]
總管 [毎翼一員。或都統或副都統兼管]
協領 [毎旗一員]
參領 [毎旗一員]
操練尉 [毎旗五員]
驍騎校 [毎旗五員]

 

とあり、また雍正『大清會典』卷一百十二、兵部二滿洲火器營條の後の割註には、

 

管領滿洲火器營[康熙三十年設……]、……[……。舊有管理漢軍火器、兼練大刀營衙門。康熙二十八年設、毎翼總管一員、以現任副都統兼管。毎旗協領、參領各一員、操練尉、驍騎校各五員、三十六年停止。]。

 

とあり、この「火器兼練大刀営」が康熙二十八年(1689)に設けられ、同三十六年(1697)に「停止」されていることがわかる。
 しかし、この「火器兼練大刀營」は、管見の限りでは康熙、雍正『會典』とその引用以外には全く現れない(14)嘉慶『大清會典事例』(影印本、『大清會典事例(嘉慶朝)』近代中国史料叢刊第七十輯、文海出版社、1992)卷四百二十七、兵部、舊設武職品級、卷四百二十八、兵部、武職、『清史稿』卷一百十七、志九十二、職官四、各「火器營」條。。また、これらの記述に現れた「火器兼練大刀営」の機構と前節の考察結果による(図1)を比較すれば、両者は酷似している。

 

 これらを考えあわせると、康熙二十二年(1683)に設立された漢軍火器営が、同二十八年(1689)に「火器兼練大刀営」に改組されたものの、依然一般には「火器営」・「漢軍火器営」と呼ばれ続け、同三十六年(1697)に至って「停止」されたという仮説が導き出される(15)なお嘉慶『大清會典事例』卷四百二十八、兵部、武職、火器營には「(康熙)三十六年、裁練大刀營衙門各官。」とあり、同卷四百二十七、兵部、舊設武職品級では火器営協領・火器営参領・火器営操練尉はみな「(康熙)三十六年、裁」と記載されていることから、漢軍火器営、すなわち火器兼練大刀営は康熙三十六年に廃止されたと思われる。
事実、康熙三十七年(1698)を最後に漢軍火器営もしくは「火器兼練大刀営」という記述は史料からその跡を絶ってしまう(16)雍正『大清會典』卷六十三、禮部七、大閲儀、乾隆『大清會典則例』卷一百八、兵部、大閲など事例部分を除く。

 漢軍火器営に関する記述は、管見の限り、『八旗通志』(初集)卷十三、旗分志十三、正黄旗漢軍都統第三參領所属第八佐領に、

 

第八佐領、係康熙二十二年編設、初隷鍍紅旗……。康熙三十七年此佐領撥隷本旗、以阿達哈哈番兼火器營參領閻琦管理。……。

 

と見えるのが最後である。
 従って、漢軍火器営と「火器兼練大刀営」は同一の部隊であった可能性が高く、漢軍火器営(火器兼練大刀営)は康熙三十六年以後に廃止、もしくは別の部隊へと改編されたと考えられる。

 

 〔『宮中檔雍正朝奏摺』(国立故宮博物院編、国立故宮博物院(台北)、1977-1980)第二十六輯 p.479に収録されている正黃旗漢軍副都統の李林森の奏摺『奏請恢復漢軍火器營摺』(無年月)によれば、

 

……伏思康熙二十二年編設漢軍火器營時每佐領下領催二名、馬兵二十名、敖爾布二名, 每旗協領一員、參領一員、章京十員、驍騎校十員、每翼都統一員、副都統二員管理八旗、又不時合操、是以鳥鎗頗覺熟練、至三十六年將火器營歸併於弓箭營之後、雖每月按期射箭、春秋二季演放鳥鎗、其間操演未免間隔、以至鎗箭俱不得熟練……

 

とあり、康熙二十二年(1683)に「漢軍火器営」が編成され、同三十六年に「弓箭営」なる部隊に合併されたことがわかる。
 李林森は本奏摺において

 

今漢軍每佐領下馬兵有三十六七名不等、此撥兵十名、學習鳥鎗、其餘足可以當差、今漢軍之藤牌與滿洲之長鎗合爲一營操練、臣愚以爲馬步有分、進退各異、不若將漢軍之火器營復行設立、將藤牌歸併於火器營一同操練、亦不必另添協領、即令現營藤牌之參領章京、驍騎校等兼轄、仍照前每翼派都統一員、副都統二員不時訓練、如此則營伍各有專責操練、不至間斷、而鳥鎗藤牌俱得以熟練矣、臣愚昧無知、冒瀆具奏應否准行候聖裁。

 

と漢軍火器営の再編成を提案している。

 

 これに対し雍正帝は

 

八旗都統會議具奏

 

という硃批を付け加え、八旗の都統が会議して、その内容を上奏するよう命じているが、その後漢軍火器営が再編成された形跡は見いだせない。
 故に、漢軍火器営は康熙三十六年に別部隊に合併・改編されたと考えられる。〕

 

第5節 清・ジューンガル戦争の開始と漢軍火器営

 

 これまで行ってきた考察から、康熙三十年(1690)以前に漢軍旗人を選抜して編成された「(漢軍)火器営」なる部隊が存在したことは、既に確実となった。
漢軍火器営がその成立以後、史料上にて初めての実戦参加が確かめられるのは、康熙二十年代に黒龍江流域で行われた対ロシア戦である〔この部分は誤り、対ロシア戦で漢軍火器営の実戦参加があったのかどうかは管見の限り不明である〕。康熙二十七年(1688)四月にはその一部が清朝側の交渉担当者であるソンゴトゥ・佟国綱等に率いられ、ネルチンスクへと赴き(17)『平定羅刹方略』(影印本、『朔方備乘』卷首五~八所収、何秋濤校注『筆記小説大観』十三編、新興書局、1976)卷四、康熙二十七年(1688) 五月癸酉(26日)条に「上命内大臣索額圖、都統公國舅佟國綱及尚書阿爾尼、左都御史馬齏、護軍統領馬喇往主其議、并派八旗前鋒兵二百、護軍四百、火器營兵二百、毎翼前鋒參領一員、署前鋒侍郎二員、毎旗護軍參領二員、署護軍參領六員、毎翼火器營協領一員、參領一員、毎旗章京一員、令都統郎坦、班達爾沙、副都統納秦、札喇克圃率之偕往。」とある。、ロシアヘの示威を行っている。
 しかし、漢軍火器営の活動が最も目立つのは、康熙二十七年夏以後、ジューンガル部(オイラット・エルート)の軍事行動が盛んになってからである。
 初めに、ジューンガル部と清朝の武力衝突について、その発端を簡単に述べておきたいと思う。十七世紀後半当時のハルハ=モンゴル、現在のモンゴル国は左右翼に分かれ、抗争をくり返していた(18)宮脇淳子「十七世紀清朝帰属時のハルハ・モンゴル」(『東洋学報』第六十一巻第一・二号、1979)。。康熙二十五年(1686)、清朝はラサと共同して調停に乗り出し、クレーン=ベルチルにて左右翼の会盟をとり行つたが、翌年、左翼のトゥシェートゥ=ハーンは右翼ジャサクトゥ・ハーンを襲殺。さらに、右翼を支援していたジューンガル部のガルダン(噶爾丹)・ハーンの弟ドルジジャブを敗死させた。
 このため、康熙二十七年(1688)六月、ガルダンは三万の軍を率いハルハ部を席捲し、ハルハ部は総崩れとなり、君長と属民を問わず清朝の領域である内モンゴルへと殺到した。トゥシェートゥ=ハーンとその弟で、ハルハ=モンゴル人の宗教的指導者(活仏)、ジェブツンダンバ=フトゥクトゥは清朝に対し救援を要請したが、康熙帝はガルダンとの衝突を避け、その亡命のみを受け入れた。以後、ガルダンは、清朝に対し、トゥシェートゥ=ハーンと、ジェブツンダンバ=フトゥクトゥの引き渡しを再三に渡って要求し続けるが、清朝側は拒否を貫いた。
 同年九月三日、康熙帝は北辺の防備を強化するため、北京の漢軍火器営を帰化城(現フフホト)に派遣している(19)『朔漠方略』卷五、康熙二十七年(1688)九月庚午朔條、壬申(三日)條。
 康熙二十九年(1690)夏、ガルダン軍は大興安嶺沿いに南下を開始し、六月十四日には、烏爾会河に至った。報告を受けた康熙帝は、現地のハルハ=モンゴル人部隊を率いる理藩院尚書阿爾尼に、出来うる限り戦闘を避けるよう指示する一方、ガルダンヘの親征計画を立案し、二十四日には漢軍火器営や緑営の火器部隊の派遣を決定し、漢軍火器営は皇帝御駕の護衛を担当することとなった (20)『朔漠方略』卷六、康熙二十九年(1690)六月戊寅(十九日)條、癸未(二十四日)條。
 しかし、二十九日、阿爾尼はガルダン軍と衝突し、『朔漢方略』卷六、康熙二十九年六月戊子(二十九日)條に、

 

尚書阿爾尼等奏報:「與厄魯特戰於烏爾會河地方。……。二十一日昧爽、於烏爾會河地方、及其營。令所選蒙古勇士二百餘攻之、令喀爾喀兵五百、驅其所掠。未及戰、諸部落及喀爾喀兵、爭取其子女、牲畜、陣動不能止、遂退。厄魯特分爾翼、陣而立。我軍次隊繼進、厄魯特發鳥鎗軍退。前隊兵及喀爾喀兵復進、喀爾喀畏其鳥鎗先却、諸部落兵力薄亦退。厄魯特増兵、從山上繞出我左右、我軍不能進、遂歛兵歸。……」。

 

とあるように、火器戦術に敗北し撤退を余儀なくされた。
 そして、ガルダンはさらに南下し、康熙二十九年七月二十九日、ウラーン=ブトン(現、内モンゴル自治区赤峰市付近)にて、裕親王福全の率いる清軍と接触し、同八月一日、激しい火器の応酬を繰り広げることとなった。

 

第6節 ウラーン=ブトンの戦いにおける漢軍火器営

 

 ウラーン=ブトンの戦いについては、魏源の『聖武記』以来これまで、火器の威力による清朝の大勝利とする見解が定説化してきた〔1980年代までの状況〕(21)『聖武記』(楊家駱主編、中国学術名著第五輯、中国史学名著第六集、第一冊、世界書局1970)卷三、康熙親征準噶爾記には、「〔康熙二十九年〕八月朔、我撫遠軍、遇賊於烏闌布通。……翼日我軍進撃、大戰於烏蘭布通。賊騎數萬陣山下、依林阻水、以萬駝縛足臥地、背加箱朶、蒙以濕氈、環列如柵、士卒於朶隙發矢銃備鉤距。謂之駝城。我師隔河而陣、以火器爲前列、逼攻中堅。自晡至暮、駝斃於礮、頽且仆、陣斷爲二。歩騎爭先陥陣、左翼兵又遶山横撃、遂破其壘。賊乘夜走保高險。‥‥‥。」とあり、清軍が火器の威力により敵陣を二つに分断し、ガルダン軍を大いに破ったとしている。
しかし、張羽新氏はこの戦いの戦況について、『朔漢方略』などによって『聖武記』の説を批判し、清朝の勝利とする説を却けている(22)張羽新「烏蘭布通之戦的勝敗問題」(『歴史研究』1986年第5期、1986)。例えば、『朔漠方略』卷八、康熙二十九年(1690)八月辛酉(三日)條には、

 

辛酉、大將軍裕親王福全等奏報:「擊敗噶爾丹於烏闌布通。」
裕親王等奏言:「七月二十九日、臣等聞厄魯特屯烏闌布通、即整列隊伍。八月初一日、黎明前進。日中見敵、設鹿角、鎗礮、列兵徐進。未時臨敵、發鎗礮撃之。至山下、見厄魯特於林内隔河高岸相拒、横臥駱駝、以爲障蔽。自未時交戰、至掌燈時、左翼由山腰捲入大敗之、斬殺甚多。右翼進撃、爲河岸淖泥所阻、囘至原處而立。本欲盡滅餘賊、但昏夜地險、収兵徐退。其噶爾丹死於亂兵與否、俟後査明另奏外、事關大敗賊衆。謹以奏聞。」……

 

とあり、下線部を見ればガルダン軍を完全撃破するには至っていないことが分かる。さらに、『八旗通志』(初集)卷一百四十三、名臣列傳三、佟國綱には、

 

……〔康熙〕二十九年、厄魯特噶爾丹蠢動。七月、聖祖命裕親王福全爲撫遠大將軍、率師往討。國綱與弟國維、并以内大臣同行參贊軍務。兵至烏闌布通、遥見賊兵據樹林内臥駱駝爲陣。國綱率火器營官兵奮勇進撃、直逼賊陣。賊兵有伏於駱駝後者、潛以鳥鎗撃中國綱、遂歿於陣。我左翼兵從山腰捲入、大破賊兵。……。

 

とある。
 前月の二十七日、康熙帝は熱病のため北京に帰還しており(23)『朔漠方略』卷七、康熙二十九年(1690)七月丙辰(二十七日)條。、佟国綱の指揮する漢軍火器営は最前線で運用されたが、大いに苦戦し、史料に見られるように国綱自身も銃撃を受け、戦死するありさまであった。
 このようにガルダンは、地形を巧みに利用し、ラクダを地面に伏せさせ、その陰からの鳥鎗の一斉射撃により、清軍に大きな損害を与えた。
 さらに、張氏によれば、戦後の和平交渉でガルダンは依然として高圧的にトゥシェートゥ=ハーン・ジェブツンダンバの引き渡しを要求しており、その戦力は依然として大きかったことが推測出来るし、清軍の北京帰還後、裕親王ら遠征軍首脳部に対し軒並み罰棒や所領のニルの没収・革職などの処分が下っていることからも(24)注(22)及び、『朔漠方略』卷八、康熙二十九年(1690)十一月己酉(二十二日)條。清の大勝利とすることは出来ない。すなわち、ウラーン=ブトンの戦いにおいて、火器により大きな損害を受けたのは、むしろ清軍、とりわけ漢軍火器営であった。

 

第7節 康熙三十年(1691)以後の漢軍火器営

 

 本節では、康熙三十年(1691)、〔満洲〕火器営設立以後の漢軍火器営の動向について述べて行きたい。
ウラーン=ブトンの戦いにおいて漢軍火器営は大きな損害を被ったが、依然、皇帝直属の精鋭火器軍としての地位は失っていなかった。康熙三十年(1691)五月に、ハルハ部の王公を招集して、ドロン=ノール(七渓)にて挙行された会盟において、漢軍火器営は緑営兵とともに火器の実演を行っている。以下、その様子を『朔漢方略』卷十、康熙三十年五月戊子(三日)條から引用すると、

 

戊子。駕臨七溪大閲、錫喀爾喀名爵。
是日、上令八旗滿洲、及漢軍火器營、總兵官蔡元標下緑旗官兵、排列礮火、皆上親自指示。上躬御甲胄、大閲軍容畢、御黄幄、賜諸王大臣、及衆喀爾喀等茶。令侍衞等射、有膂力者角觝。礮火之聲響震山谷、將士進退赫奕威嚴、行伍布列整齊壯麗。衆喀爾喀等皆畏懼、無不駭愕讃美。……。

 

とあり、漢軍火器営・緑営兵による火器の演習がハルハ部人に強い印象を与えたことが分かる。この示威によって、清のハルハ部掌握はこのとき成功裏に行われたのであった。
 また、この年の正月二十二日、漢軍火器営兵はガルダンの再度の南下に備えて張家口に2000名が派遣されており、翌年九月には大同へ漢軍火器営兵1000が派遣されている(25)『朔漠方略』卷九、康熙三十年(1691)正月戊申(二十二日)條、卷十二 康熙三十一年(1692)九月辛酉(十五日)條。
 そして、康熙三十五年のモンゴル親征時には、前述のように皇長子とソンゴトゥの指揮下で、再び皇帝の御営の護衛を務めることとなった。『朔漢方略』卷二十、康熙三十五年(1696)二月丙午(二十日)條には、

 

定中路軍營。
上諭内大臣馬思喀等曰:「中路護軍及驍騎、可列爲十六營、爾其酌量集議。」。 議曰:「皇上駐蹕處爲一營、八旗前鋒列作二營、八旗護軍及驍騎、列作十六營。八旗漢軍火器營兵、随礮兵、礮手、綿甲兵列作四營。部院大臣、官員筆帖式等、列作一營。左翼察哈爾兵列作二營。宣化府及古北口緑旗兵、各爲一營。……。」。

 

と見えている。また、漢軍火器営は中路軍の馬匹の護衛をも担当しており(26)『朔漠方略』卷二十三、康熙三十五年(1696)五月丙辰朔條。、部隊としての信頼度が非常に大きかったことが窺える。
 しかしながら、漢軍火器営は重く、大きな火器を輸送する関係上、やはり行軍の足を引っ張る存在だったようで、康熙三十五年三月二十九日には、領侍衛内大臣福善が「漢軍火器營兵雪阻情事」として〔漢軍都統李政宗・諾穆図らの報告に基づき〕「沿途雨雪交作、泥濘難行(沿途の雨雪交(こもごも)作(おこ)り、泥濘行くこと難し」(27)『朔漠方略』卷二十一、康熙三十五年(1696)三月乙酉(二十九日)條。と奏しているし、親征中の康熙帝が四月六日(28)岡田英弘「モンゴル親征時の聖祖の満文書簡」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1983)による。岡田氏は『宮中檔康熙朝奏摺』(故宮文献編集委員会編国立故宮博物院 1976~77)第八輯、第九輯所収のモンゴル親征時の満文書簡に付された日付は、書簡の北京到達日であるとし、主に『朔漠方略』の記事に基づいて、書簡が康熙帝によって発送された日付を割り出している。に北京の皇太子に書き送った満文書簡にも、

 

hese hūwang taidzi de wasimbuha,bi karun de isidele tuwaci ,orho ulgiyen(ulhiyen)i ambula sain,duin biyai ice ci morin ebime deribuhe,honin aitume hamika,muke elgiyen ofi ilan gūsa kamcifi yabumbi,udu jakūn gūsa emu bade bihe seme tookabure ba akū,dejirengge elgiyen,neneme donjiha ci ambula encu,ilan biyai dorgide aga inenggi labdukan ofi gūnin de acabuha akū seme ališaha bihe te sulakan oho, moltosi be tuciketucihe tuwa i ahūraagūrai ujen coogacooha be aliyame labdu indehe.isinare inenggi be doihon de toktobuci ojorakū……
( )内は満洲語の一般的な綴。筆者補足。


旨を皇太子に下す: 「私はカルンに近づいて、見てみると草は次第に大いに良くなり、四月初めからは馬は満腹し始め、羊もほぼ肉がついた。水は豊富であり、三旗が合流して行軍している。いくら八旗が一ヵ所にいても不自由することはない。燃料は豊富で、以前に聞いていたこととは大違いである。三月中は雨の日が幾分多かったので、思い通りにならず心中苦しんだが、今は少しましになった。古北口を出た火器〔営〕の漢軍を待って長い間休んだ。到着日を予定することはできない。……」。

 

(29)『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯 pp100~104、28、康熙三十五年(1696)四月十一日到。モンゴル親征中の康熙帝の満文書簡の日本語訳を行ったものに、岡田英弘『康熙帝の手紙』(中公新書559、中央公論社、1979)があり、訳出にあたって参考とした。

 

と悪天候による行軍の遅延への苛立ちが吐露されている。
 そして、この戦いにおいて漢軍火器営は敵に出会うことはなく、北京に帰還している。
 先に述べたように、康熙三十七年(1698)を最後に、漢軍火器営は史料から忽然と姿を消してしまう。その原因については現在の所材料が少なく推定によるしかないが、本節でのべた機動力の低さや、次章で述べる(満洲)火器営にその役割を奪われたことなどが考えられる。

 

 

 

おわりに

 

 以上、本章で述べてきた所をまとめると、次のようになる。
火器営は、その編成年次とされている康熙三十年(1691)以前にも存在した。しかし、この「火器営」は、満洲・蒙古旗人によって編成された火器営ではなく、八旗漢軍から兵員を選抜して編成したものであって、「漢軍火器営」・「(漢軍)火器兼練大刀營」とも呼ばれた部隊であった。
 漢軍火器営は、皇帝に極めて近い精鋭部隊として、対ロシア戦・ジューンガル戦に従軍し、清の対外拡張政策の端緒となったこれらの戦いにおいて、その役割を期待されたのであった。そして、康熙二十九年(1690)のウラーン=ブトンの戦いにおいて、ジューンガル部の火器戦術によって大きな損害を受けたのであった。
 そして、康熙三十七年(1698)を最後に、漢軍火器営は史料から忽然と姿を消してしまう。その原因については、現在の所材料が少なく、不明確なままとせざるを得ないが、本章で述べたように、既存の漢軍と同様に機動力の点で問題を抱えていたことや、次章で述べる(満洲)火器営にその役割を奪われたことなどが考えられる。

       [ + ]

    1. 『康熙起居注』(中国第一歴史檔案館整理、中華書局、1984)
    2. 『聖祖實録』卷一百九、同日條にほぼ同文の記事あり。『清史稿』(点校本、中華書局、1977)卷七、聖祖本紀二、康熙二十二年五月丙午(五日)條にも「五月丙午、設漢軍火器營」とある。
    3. 本稿では以下、組織体としての佐領(niru)をニルとし、その管理者としての佐領( niru i janggin)は佐領とし、同一名称による混乱を避けることにする。
    4. 八旗のニル数について、康熙・雍正『大清會典』(共に天理図書館蔵)では、わずかに「凡例」で、八旗士馬雲屯、難以數計。とするのみであり、清朝自身も完全には把握していなかったようである。なお、康熙『大清會典』卷二十三、戸部七、編審八旗壯丁によれば、康熙年間には1ニルは原則として、130~140名の壮丁によって編成された。
    5. 『八旗通志』(初集)、卷十三~十六、旗分志十三~十六によれば、雍正九年(1731)時点での八旗漢軍全260ニルの内、45ニルは、三藩の乱平定(康熙二十年1681)前後の康熙十八年~二十三年に旧三藩兵を受け入れて編成されている。この旧三藩ニルを除くほとんど全てのニルは入関前後の編成に係っている。
    6. 雍正年間のニル再編成については、細谷良夫「八旗通志初集『旗分志』編纂とその背景-雍正朝佐領改革の一端-」『東方学』第三十六号、1968)、「八旗通志初集『旗分志』のニル表記とニルの名号呼称」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1984)、「清朝中期における八旗漢軍の再編成」(『清代中国の諸問題』石橋秀雄編、山川出版社、1995)などの論考がある。
    7. 『旗軍志』(影印本、『昭代叢書』乙集、卷十、上海古籍出版社1990)金徳純は、『八旗文經』(光緒二十七年(1907)刊、京都大学人文科学研究所蔵)卷五十七と『清史稿』卷四百八十四、列傳二百七十一、文苑一などの伝によれば、順治、康熙年間頃の正紅旗漢軍の人であったようである。
    8. 神田信夫「清初の議政大臣について」(『和田博士還暦記念東洋史論叢』同論叢編纂委員会編、講談社、1951)〔→同『清朝史論考』山川出版社、2005〕。
    9. 『聖祖實録』卷九十六、康熙二十年(1681)五月庚申(八日)條、卷九十八、同年十一月甲寅(五日)條。
    10. なお『清史列傳』(王鍾翰点校、中華書局、1988)卷十、大臣畫一傳檔正編七、佟國綱には、「‥‥‥〔康熙〕二十年、授鑲黃旗漢軍都統。二十二年、充教習鳥槍兵丁總管‥‥‥。」と見え、下線部は、漢軍火器営の指揮官職と関係していると思われる。
    11. 第一章注(7)及び『八旗通志』(初集)卷一百四十三、名臣列傳三、佟國綱。
    12. 『清史稿』卷七、聖祖本紀二、同日條に、「丁酉、増設八旗火器營、副都統領之。」とあるが、これは火器営の後の「操練官〔操練尉〕」が脱落したものであろう。
    13. バヤラ・前鋒営・護軍営の成立史及び機構に関する研究には以下のものがある。鴛淵一「清初擺牙喇考」(『稲葉博士還暦記念満鮮史論叢』同論叢編纂会編、発行、1938)、阿南惟敬「清初バヤラ新考」(『史学雑誌』第八十編第四号、1971→同『清初軍事史論考』甲陽書房、1980)、石橋崇雄「清初バヤラの形成過程-天命期を中心として-」(『中国近代史研究』第一号、1981)、「清朝八旗制下における職官名の漢字表記改称時期―特に bayara及びgabsihiyan関係の職官名を中心として―」(『中国近代史研究』第八号、1988)。
    14. 嘉慶『大清會典事例』(影印本、『大清會典事例(嘉慶朝)』近代中国史料叢刊第七十輯、文海出版社、1992)卷四百二十七、兵部、舊設武職品級、卷四百二十八、兵部、武職、『清史稿』卷一百十七、志九十二、職官四、各「火器營」條。
    15. なお嘉慶『大清會典事例』卷四百二十八、兵部、武職、火器營には「(康熙)三十六年、裁練大刀營衙門各官。」とあり、同卷四百二十七、兵部、舊設武職品級では火器営協領・火器営参領・火器営操練尉はみな「(康熙)三十六年、裁」と記載されていることから、漢軍火器営、すなわち火器兼練大刀営は康熙三十六年に廃止されたと思われる。
    16. 雍正『大清會典』卷六十三、禮部七、大閲儀、乾隆『大清會典則例』卷一百八、兵部、大閲など事例部分を除く。
    17. 『平定羅刹方略』(影印本、『朔方備乘』卷首五~八所収、何秋濤校注『筆記小説大観』十三編、新興書局、1976)卷四、康熙二十七年(1688) 五月癸酉(26日)条に「上命内大臣索額圖、都統公國舅佟國綱及尚書阿爾尼、左都御史馬齏、護軍統領馬喇往主其議、并派八旗前鋒兵二百、護軍四百、火器營兵二百、毎翼前鋒參領一員、署前鋒侍郎二員、毎旗護軍參領二員、署護軍參領六員、毎翼火器營協領一員、參領一員、毎旗章京一員、令都統郎坦、班達爾沙、副都統納秦、札喇克圃率之偕往。」とある。
    18. 宮脇淳子「十七世紀清朝帰属時のハルハ・モンゴル」(『東洋学報』第六十一巻第一・二号、1979)。
    19. 『朔漠方略』卷五、康熙二十七年(1688)九月庚午朔條、壬申(三日)條。
    20. 『朔漠方略』卷六、康熙二十九年(1690)六月戊寅(十九日)條、癸未(二十四日)條。
    21. 『聖武記』(楊家駱主編、中国学術名著第五輯、中国史学名著第六集、第一冊、世界書局1970)卷三、康熙親征準噶爾記には、「〔康熙二十九年〕八月朔、我撫遠軍、遇賊於烏闌布通。……翼日我軍進撃、大戰於烏蘭布通。賊騎數萬陣山下、依林阻水、以萬駝縛足臥地、背加箱朶、蒙以濕氈、環列如柵、士卒於朶隙發矢銃備鉤距。謂之駝城。我師隔河而陣、以火器爲前列、逼攻中堅。自晡至暮、駝斃於礮、頽且仆、陣斷爲二。歩騎爭先陥陣、左翼兵又遶山横撃、遂破其壘。賊乘夜走保高險。‥‥‥。」とあり、清軍が火器の威力により敵陣を二つに分断し、ガルダン軍を大いに破ったとしている。
    22. 張羽新「烏蘭布通之戦的勝敗問題」(『歴史研究』1986年第5期、1986)
    23. 『朔漠方略』卷七、康熙二十九年(1690)七月丙辰(二十七日)條。
    24. 注(22)及び、『朔漠方略』卷八、康熙二十九年(1690)十一月己酉(二十二日)條。
    25. 『朔漠方略』卷九、康熙三十年(1691)正月戊申(二十二日)條、卷十二 康熙三十一年(1692)九月辛酉(十五日)條。
    26. 『朔漠方略』卷二十三、康熙三十五年(1696)五月丙辰朔條。
    27. 『朔漠方略』卷二十一、康熙三十五年(1696)三月乙酉(二十九日)條。
    28. 岡田英弘「モンゴル親征時の聖祖の満文書簡」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1983)による。岡田氏は『宮中檔康熙朝奏摺』(故宮文献編集委員会編国立故宮博物院 1976~77)第八輯、第九輯所収のモンゴル親征時の満文書簡に付された日付は、書簡の北京到達日であるとし、主に『朔漠方略』の記事に基づいて、書簡が康熙帝によって発送された日付を割り出している。
    29. 『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯 pp100~104、28、康熙三十五年(1696)四月十一日到。モンゴル親征中の康熙帝の満文書簡の日本語訳を行ったものに、岡田英弘『康熙帝の手紙』(中公新書559、中央公論社、1979)があり、訳出にあたって参考とした。

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