東方録夢――第一回 言語の沼
さて、今回から本ブログの随筆「東方録夢」を書いていく。
思いつくままに書いていくので、内容も長短も不統一になると思う。
まず第一回目は「言語の沼」について。
私は学部時代と修士課程時代に清朝史を専攻していた。
主に清朝の軍制・政治行政制度である八旗を研究し、修士論文では八旗の中の火器部隊である「火器営」について書いた。
ここ20年ぐらいは、八旗のロシア人部隊である「俄羅斯佐領」についても調べている。
八旗は東は東北アジア、西は中央アジアに至る広い範囲で軍事活動を行った。さらに単に軍事活動のみならず、八旗の構成員(旗人)から輩出された「旗人官僚」は、東北アジアから中央アジアにまで及ぶ大清帝国のすべての範囲内で活動した。
八旗はいわば清朝の「中央ユーラシア」支配にとって大きな役割を果たしていた。
そもそも「中央ユーラシア」とは、1960年代にデニス=サイナーという研究者により提唱された空間概念で、東は大興安嶺山脈東麓一帯、モンゴル高原、ジュンガル盆地、カザフ草原、南ロシア草原、西は東ヨーロッパのハンガリー平原にまで至る北の草原(ステップ)地帯と南の砂漠・高原地帯をいう。そこでは騎馬遊牧民と定住農耕民が活動し、草原での遊牧とオアシスでの定住農耕が行われた。

古松崇志『草原の制覇――大モンゴルまで』(シリーズ 中国の歴史3、岩波新書、岩波書店、2020年3月)、p.3より
そして、そこには数多くの言語が存在している。
当然その歴史を研究する上では数多くの言語を縦横に使いこなす必要がある。
ぱっと思いつくだけでも、中国語、古典漢文、満洲語、モンゴル語、チベット語、ウイグル語、チャガタイ=トルコ語、カザフ語など中央アジア諸言語……などなど数限りない。
さらには西欧言語で書かれた研究、さらには中央ユーラシアの外縁である東欧諸国とロシアでの研究蓄積も多いので、そちらへの目配りも欠かせず、当然その国の言語が必要になる。
昔、大学院時代の先輩が中央ユーラシア史について、「あのへんの歴史をやっていると『言語学者』になってしまう」とおっしゃっていたのを思い出す。
つまり、覚えなければならない言語があまりにも多いため、言語の習得に忙殺されて歴史の研究にまで手が回らなくなるという意味。
実際、この分野を研究している方々は三言語、四言語はあたりまえに使いこなしている方が多い。
そして、数多くの言語を習得した上で、注目すべき研究成果を数多く発表している。
近年は、清朝史研究者でも数多くの言語を使いこなしており、清朝を多角的に見た、多種多様な研究成果が世に出るようになった。
驚くべき事だと思う。
さて、清朝史を専攻していた私の場合は、中国語、古典漢文、満洲語はどうにかこうにか読めるが、それ以外はまるでダメ。
昔、ロシア語はかじったことはあるが、初級段階で挫折して、挨拶言葉ぐらいしか覚えていない。
俄羅斯佐領についてはいろいろ調べてきたけど、自分はロシア語が全然できないので、ロシア側の文献を読めないという限界がある。
モンゴル語もやりたいし、英語もやらなきゃいけないし、満洲語も復習が必要だし、古典漢文の読解もだいぶん錆び付いてるし……沼にハマるとキリがない。
底なし沼やね、これは。
まあ、私は研究者になる遙か手前で挫折した人間だけど、この辺の歴史を少しずつ勉強しているので、とりあえずモンゴル語と英語は少しずつやっていこうかな、と。
できる範囲で少しずつ。