電羊齋の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて阪神タイガースを愛するようになったか(上)
クリスマス企画として、2024年12月11日(水)から12月25日(水)のクリスマス当日まで特定のお題の記事を一つずつ掲載します。
名付けて「電羊齋お一人様 Advent Calendar 2024」。
3日目、12月13日(木)のお題は「電羊齋の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて阪神タイガースを愛するようになったか」です。
当初は一つの記事にまとめようと思ったのですが、長くなりそうなので(上)・(下)に分けることにしました。
電羊齋の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて阪神タイガースを愛するようになったか(上)
私は阪神タイガースの大ファンである。それも「熱狂的」を通り越して「狂信的」な部類のファンである。
ファン歴はすでに40年以上。私は現在51歳なので一生のうちの80%以上を阪神ファンとして過ごしていることになる。
今日はこの私の阪神タイガースファンとしての歴史を語りたいと思う。
第一章 吾輩は阪神ファンである(1973~1984)
吾輩は阪神ファンである。名前は電羊齋である。
どこで阪神ファンになったのかとんと見当がつかぬ。
まるで『吾輩は猫である』の出だしのようだが、実際にそうなので仕方がない。
父親は元々西鉄ライオンズのファンだったが、関西に出てきて阪神も応援するようになっていた。
しかも1973年生まれの私の幼少期は黒い霧事件や身売りなどでライオンズが弱体化しており、そのせいもあり余計に阪神を応援するようになっていたらしい。
自分が阪神ファンになったのはどうもその影響らしい。
物心つく前や幼児の頃に父親に甲子園球場に連れて行ってもらっていたらしいが、よく覚えていない。
テレビでヒゲの外国人選手がホームランを打ったシーンを見たのをおぼろげに覚えている。おそらくラインバックだろう。
物心ついてからは、背番号「22」が入った田淵のユニフォーム風のシャツと半ズボンをはいて、プラスチックのバットとゴムボールで遊んでいた。
しかし、そんな私を突然の凶報が襲う。
1978年秋の田淵の西武ライオンズへの突然のトレードである。
幼い私にとって大変なショックだった。ショックのあまり、阪神だけでなくプロ野球自体への興味も失ってしまったほどである。
そんな私が阪神ファンに復帰したのは、1984年、小学校5年生の時だった。
ソフトボール好きの担任の先生の影響でソフトボールを熱心に練習するようになり、波及効果で野球にも興味を持ち出し、阪神タイガースへの情熱が蘇ってきた。
テレビで阪神を応援したり、掛布の打席に入るときのルーティーンを真似したり、家で素振りをしたりしていた。
図書館では野球に関する本を読みふけった。
野球の歴史に関する本もたくさん読み、私はだんだん熱狂的な阪神タイガースファンへと成長していった。
特に村山実には惹かれた。「天覧ホームラン」?あれはファウルや!という確信を持ったのも小学校5年生の時である。
小学校の授業で「将来の夢」という作文を書かされたとき、「阪神優勝」と書いたのもこの頃である。
先生は呆れて「真面目に書け」と注意してきた。
先生!私は本当に真面目に書いていたんです!というか、私の一生のうちこれほど真面目に書いた文章があっただろうかというぐらい真面目に書いていたんです!と言いたい。
この頃の私はすでに手遅れの状態だったようである。
そして1985年を迎えることになる。
第二章 タイガースフィーバー……からの暗黒時代(1985~1991)
1985年は、バース、掛布、岡田の「バックスクリーン三連発」に始まり、「ダイナマイト打線」で当時の絶対強者広岡西武を破っての日本一!
夢のような一年だった。その頃は12歳、小学6年生だった。
私はついに狂信的阪神ファンとなり、毎日阪神について語るすばらしい少年となっていた。まったくもって模範的な少年といえよう。
周りにもにわかファンがドンドン増えていた。
しかし、それもつかの間のことだった。
1986年こそまだマシな成績だったが、1987年には最下位。
あとは坂道を転がり落ちるようにチームは弱体化。
V戦士たちは衰え、若手もなかなか伸びず、「バースの再来」たちは活躍しない。
私が神のようにあがめていたミスタータイガース掛布雅之も引退してしまった。本当に悲しかった。
走攻守とも希望が見いだせなかった。
そして毎年のように続くお家騒動。
大野、中野、和田の「少年隊」、中日から西武を経て来た田尾、助っ人投手のキーオ、そして岡田、真弓もがんばってはいたけど……。
あれほど多かったにわかファンも一人去り、二人去り、一人私が残された。
あれほど阪神を賞賛していたマスメディアも手のひらを返し、阪神のスキャンダルやお家騒動を面白おかしく取り上げる。
私はすでに中学生にして世の中の冷たさと無節操さを思い知った。
私はいわゆる「根暗」、「陰キャ」な人間であり、世の中に対して少し斜に構えるところもあるが、このように育った背景には阪神ファンとして経験した世の中の冷たさと無節操さが間違いなく影響していると思う。
もし私が常勝チームのファンだったら、もっと明るくて素直な人間に育っていたのではなかろうか。
高校生になって行動範囲が広がって、一人で甲子園に行くようになった。
1990年代初頭当時はライトスタンドにも当日楽々入れた。
試合前にフェンス前通路に張り出されているヒッティングマーチ歌詞カードの歌詞をメモし、毎回大声を張り上げて応援。
(今はYouTubeで予習復習できる。便利になったもんだわ)
まあ、暗黒時代なのでほぼ毎試合負け試合を見て帰ってきていたのだが。
クラスでは毎日広島ファンのクラスメイトと舌戦というか野球談義を繰り広げていた。
先生や他のクラスメイトにも阪神ファンとして半ば呆れられ、半ば面白がられていた。
高校の修学旅行のパーティーでは阪神タイガースの法被を着て大さわぎ。
卒業アルバムにも法被姿の私の写真が載ってしまっている。
そんな私もくじけそうなことがあった。
球団のお家騒動についに嫌気が差し、高校2年の秋~冬頃に「俺は阪神ファンをやめる!」と宣言。
くだんの広島ファンのクラスメイトは「絶対無理やろ」と笑っていた。
そして、2週間後、耐えきれなくなってついに前言を翻して阪神ファンに戻った。
私にとって、阪神タイガースのない生活は考えられないことを思い知らされた時だった。
それから約30年以上、一日たりとも阪神のことを考えなかった日はなかったと言っても過言ではない。
あの広島ファンのクラスメイトは今どうしているだろうか。
今でもどこかで広島カープを応援しているのかな。
少し話がそれる。
とある試合前、巨人の選手が甲子園のグラウンドの外周をランニングしていてちょうどライトスタンドにさしかかった頃、阪神ファンが一斉にヤジを飛ばしていた。私も実はその一人だった。
当時の阪神ファンは現在に比べて荒っぽく、血の気が多かった。今でこそ巨人を良きライバルとしてリスペクトすることも多いが、当時は許すべからざる怨敵だった。
ヤジを受けて巨人の選手はほとんどが下を向いたり、よそを向いたりしていた。だが、その中で一人だけ阪神ファンに向けて満面の笑みを浮かべながら手を振っていた選手がいた。
桑田真澄である!
それからは選手へのヤジを飛ばさなくなった。というか飛ばせなくなった。
桑田からはファンとしてあるべき態度というものを教えられた気がする。
まさに「敵ながらあっぱれ」だった。
まあ、私は多くの阪神ファンの例に漏れずアンチ巨人であり、巨人には強烈なライバル意識を持っているのだが、そんなわけで、桑田真澄氏にはひとかたならぬ敬意を抱いている。
(つづく)