電羊齋の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて阪神タイガースを愛するようになったか(下)
クリスマス企画として、2024年12月11日(水)から12月25日(水)のクリスマス当日まで特定のお題の記事を一つずつ掲載します。
名付けて「電羊齋お一人様 Advent Calendar 2024」。
13日目、12月23日(月)のお題は「電羊齋の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて阪神タイガースを愛するようになったか(下)」です。
当初は一つの記事にまとめようと思ったのですが、長くなりそうなので(上)・(下)に分けることにしました。
(上)の記事はこちらから。
電羊齋の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて阪神タイガースを愛するようになったか(下)
第三章 「見たら負ける」(1992~2002)
1992年、私は大学に進学し、とある歴史系サークルに入った。
そこには野球ファンが多く、野球談義に花を咲かせていた。
我が阪神タイガースは中村勝広政権三年目となり、ようやく目を覚ました。
亀山、新庄が暴れまわる「亀新フィーバー」、そして八木、久慈も台頭し、オマリー、パチョレックは打ちまくり、仲田、田村ら投手陣もがんばった。
終盤まで首位だったが、ヤクルトとの競り合いに敗れ、結局2ゲーム差で2位。
楽しい一年だったが、心に引っかかっていたのは、その年4回甲子園に観戦に行き、4回とも負けたことである。
ひょっとして自分が見に行ったせいで負けたのか、もし自分が見に行っていなければ4回とも勝って優勝していたのでは?
私は真剣に悩んだ。
翌1993年は野田浩司を放出してまで取った松永浩美が故障もあって活躍せず、シーズン終了後にFA宣言してチームを去るなど散々。
成績も4位に終わった。
甲子園球場に行っても負け試合ばかり。
この頃になると完全に「見たら負ける」ジンクスにハマっていた。
もう自分は見に行かない方がいいんじゃないか、真剣にそう思った。
1994年も同様に「見たら負ける」が続いた。
あの「2億7000万円の大型扇風機」ことロブ・ディアーの貴重なホームランを甲子園球場現地で見たのが唯一の自慢。
レフトスタンドに文字通り突き刺さる弾丸ライナーだった(当たれば飛ぶんだよねえ)。
なんとかジンクスを変えようと同じサークルの阪神ファンの女の子を誘って甲子園に見に行ったらようやく阪神が勝ってくれて、足かけ3年にわたる現地観戦連敗ストップ。
その女の子から、あの伝説の珍盤「オマリーの六甲おろし」をもらったのもこの頃だったか。
(その子とは恋愛関係にはなりませんでした、あくまでお友達、念のため)
だが1995年、1996年あたりは完全にあきらめの境地で球場にも足を運ばなくなっていた。
野球中継は見ていたが、ピンチの時は「見たら負ける」と思ってチャンネルを変え、あとでもう一度チャンネルを合わせるということをやっていた。
1997年はグリーンウェルがゴールデンウィークだけ活躍したと思ったら、「神のお告げ」で帰ってしまったりしてドツボ。
その頃私は大学院修士課程で東洋史をやっていたが、修士論文のテーマの話題になったときは「「阪神タイガース衰亡論」という論文なら原稿用紙100枚ぐらい一気に書けるわ!」と冗談を飛ばしていた。
1998年は新人の坪井が活躍し、川尻哲郎がノーヒットノーランを達成し、中日から来た矢野が正捕手の座をつかんだ。
1999年~2001年は野村政権。
新庄がノムさんの下でなにかをつかんだらしくキャリアハイの成績を出してメジャーへ。
3年連続最下位だったが、2003年の優勝メンバーがこの時期に育っていった。
そんな中私は家業手伝いや陸上自衛隊(2000~2004)でいろいろ苦労していて、甲子園に行くどころではなくなっていた。
第四章 二回の優勝、それからがまた長かった(2002~2022)
2002年、星野政権開始。その年オフに好きだった遠山が引退したのは寂しかった。
2003年は圧倒的な強さを見せて優勝。日本シリーズはまあ「内弁慶シリーズ」で惜しくも敗退したけど。
実は前年の2002年に度重なる挫折を経験して心を病んでいた。生きる気力さえ失いかけていた。
だが、チーム一丸となって戦う阪神、特にFAで移籍してきた金本の献身的プレイを見て、心の中に希望の火が再びともった。
ホームランを狙わなくてもいい、つなぎのプレイ、みんなでカバーし合うことが大事だということを思い知った。
それまでの自分は「俺がやってやる」、「俺がやらなきゃ」という意識ばかりが先に立ち、ガチガチになり、空回りして自滅していた。
阪神、そして金本を見て私はそれに気づかされた。
そして立ち直って新たな歩みを始めた。
大げさではなく、阪神、特に金本は私の命の恩人と言っていい。
2004年は中国生活1年目ということで日本の野球を見られなかった。アテネオリンピックではクリス・オクスプリング(「オク様」と呼ばれてたっけ)とジェフ・ウィリアムスの阪神助っ人コンビにしてやられたなあ。
2005年は岡田政権2年目で優勝。
当時私は中国の瀋陽に留学中。
優勝決定試合はNHKの海外向けラジオでも中継されており、優勝決定の瞬間には部屋の中で一人でガッツポーズ!
興奮のあまりモンゴル族の親友に電話を掛けたが、相手は野球のことなど何も知らないので何のことだか理解していなかった。阪神狂で申し訳ない。
中国では野球は普及していない。
そして、ロッテとの日本シリーズの経過を中国で知り、愕然とした。
2006年~2008年にもいろいろあった。
2008年は一時首位を独走するも大失速して優勝を逃した。
その年は北京オリンピックで、代表に招聘された新井が無理をして、帰国後に腰椎骨折が発覚して一時離脱したのも失速の要因。
そんなこともあり、それ以後、私はオリンピックの野球競技には今ひとつ熱中できなくなった。
2008~2011年の真弓政権時代もいろいろあったが、やはり2009年の赤星引退が印象に残っている。
2010年からマートンが入団した。2010年代では一番好きな選手。
2012年は和田政権2年目。
なんといっても金本の引退が悲しかった。
いろいろな意味で心の支えだったので。
2014年にクライマックスシリーズを勝ち抜いて日本シリーズに進出するが、ソフトバンクに敗退。
2012~2022年頃は生活も苦しく、甲子園球場に行くどころではなかった。
阪神も勝ったり負けたりして、いいところまで行くが、その都度期待を裏切られる。
そんなもんだと半ば割り切っていた。
第五章 優勝、現在に至る(2023~2024)
2023年、阪神は見事優勝、日本シリーズも制覇し、38年ぶりの日本一となった。
阪神はシーズン当初からスタートダッシュに成功し、快進撃を続けていた。
8月にはマジックが点灯し、9月を迎えた。
だが、長年阪神ファンをやっていた自分はそれでも「アレ」を信じていなかった。
「アレ」とは、阪神の優勝を指す言葉だった。それまで阪神ファンは「優勝」を口にしては裏切られるというシーズンばかりだったので、本当に優勝を決めるまでは「優勝」という言葉を口にしないでおこうということになっていたのである。
そしてマスコミさらには選手たちさえもそれに同調し、「アレ」という言葉を使っていた。
どうせまたコケる、いつか落ちる、そんな風に考えていた。
極端なことを言うと、私は優勝決定試合のツーアウト目まで信じていなかった、というか最後のウイニングボールが二塁手の中野のグラブに収まるまで信じていなかった。
しかし、その一方で「今年はいけるかも」と考えるもう一人の自分もいた。
そして胴上げで一気に感情が爆発した。
胴上げでは7月に世を去った横田慎太郎選手のユニフォームも共に胴上げされた。
泣いた!
そしてCSを勝ち抜いて日本シリーズへ。
そこでオリックスの強さを見せつけられて動揺してしまい、また「見たら負ける」病にとりつかれてしまった。
一時は心臓がドキドキして生活にも差し支えるほどで、定期通院している医院の先生に真面目に相談したほどである(先生は苦笑い)。
だが、そこから立ち直り、運命の第7戦をテレビ観戦。見事勝利!
小学校6年生の時以来の日本一!
阪神ファンをやっててよかった!
それ以来、現在に至るまでメンタルはおおむね好調である。
2003年の時もそうだったが、私にとって最大の良薬は阪神の勝利であるらしい。
今年2024年は関東旅行の際に野球殿堂博物館を訪れ、村山実のレリーフの前で感慨にふけった
ZOZOマリンスタジアムに足を伸ばし、6月2日に交流戦を観戦。
才木が見事完封勝利!
ひさびさの現地観戦、ひさびさの現地観戦勝利!
今年は惜しくも優勝を逃した。
だが来年からの藤川政権に期待満々である。
おわりに
以上、私の阪神ファン歴について書いてみた。
なんというか、自分の書いた物を読み返してみると、完全に「狂っている」レベルである。
まさに「阪神狂」、まさに「異常な愛情」である。
NO HANSHIN,NO LIFE!である。