(何度目かの)Xの規約変更騒動について思うこと

最近、X(旧Twitter)がまたぞろ規約を変更したらしく、その内容をめぐって騒動が起きているようだ。
なかにはこれを機にXから他のSNSへ移動しようと考えるユーザーもいるらしい。
ただ、これまでも同様の騒動が起きるたびに「脱X」の動きは見られたが、結局のところ他のSNSにはあまり定着することなく、多くのユーザーが再びXへと戻っていく、という流れを繰り返してきたように思う。

さきほどたまたまMastodonのタイムラインに「X利用規約」が流れてきたので、ひととおり目を通してみた。

X利用規約
x.com/ja/tos

自分の場合、正直なところ、Xはもう使う気になれない。理由は主に二つある。
一つは治安の悪さ、もう一つは予測可能性の欠如だ。

Xでは、スパムや誹謗中傷といった治安の悪化に対して十分な手当てがなされているとは言い難い。
加えて、アカウントの突然の凍結、不具合の頻発、そして唐突な規約や仕様の変更が日常茶飯事のように起こる。次に何が起きるのか、ユーザー側からはまったく見通せない状況が続いている。

先ほど「利用規約」にも目を通したが、Xが以前から抱えてきた気まぐれで、身勝手で、無責任な性格が、あらためて文章として明文化されたという印象を受けた。
「ユーザーにサービスを使わせてやっているのだから、運営側が何をしようと勝手だ。文句があるなら去れ。何が起きても自己責任だ」。乱暴に要約すればそんなところだろう。
Xにおける規約は、ユーザーを守るためのものというより、ユーザーを管理し、従わせるための道具に見えてしまう。

この構図は、権威主義国家における「法による支配(Rule by Law)」を想起させる。権威主義国家の支配者が自らの権限を強化するために法を用い、国民の権利を制約し、都合よく法やルールを変更していく。そうしたありかたに似ている。

本来、運営者とユーザーとは対等な関係であり、規約とは、サービスを円滑に運営・利用するために、対等な当事者同士の権利と義務を定めるもののはずだ。双方が契約関係に基づいてそれを守る、という建前があってこそ成立する。
現実には、その理想が守られていない規約や契約も少なくないが、それでもなお、その理想を目指そうとする姿勢こそが近代社会の精神であり、「法の支配(Rule of Law)」にも通じる考え方だろう。

そう考えると、Xはイーロン・マスクによる「権威主義SNS」なのだろう、という感想に行き着く。

だからこそ、早めにアカウントを消しておいて正解だったと思っている。私がXにいたのは2023年8月までだが、その時点ですでに治安の悪化は目立っていたし、気まぐれで唐突なサービス改悪や仕様変更にもたびたび振り回されていた。最終的には堪忍袋の緒が切れ、アカウントを消すに至った。

もうすでにアカウントを持っていないので、Xの中で何が起こっているのか詳しいことは知らない。
ただ、時折「Yahoo!リアルタイム検索」を覗いたり、あちこちから漏れ聞こえてくる話を見聞きしているだけでも、自分が2年前にXを辞めた頃よりもさらにひどくなっているらしいことは伝わってくる。最近では「Yahoo!リアルタイム検索」を覗くのさえ嫌になってきたので、ブラウザのブックマークから「Yahoo!リアルタイム検索」のリンクを削除したほど。

やはり自分にはXは無理だとしか言いようがない。

以上が、現時点での私なりのX(旧Twitter)に対する結論である。
今後、Xおよびそれに付随するサービスを利用することはないし、それらについてここで取り上げることもないだろう。