クリスティー著・矢内原忠雄訳『奉天三十年』(上)・(下)
クリスティー著・矢内原忠雄訳『奉天三十年』(上)・(下)、岩波新書、1938年11月
以前、大阪の古本屋で発見してすぐ購入したあと、長らく「積ん読」状態になっていたが、3月に帰国したさいに実家で「発掘」に成功。
ついこの間読了。
本書は、1882年スコットランドから奉天(現在の瀋陽)にやってきた宣教師・医師であるクリスティーが、19世紀末から辛亥革命後までの約30年間にわたる布教活動と医療活動、そして日清戦争から義和団、日露戦争、辛亥革命に至る激動の時代における奉天の様相をつづった回想録。
詳しい内容は省き、とりあえず自分が興味を持った点を要約。
(なお書評には「支那」という言葉が頻出しますが、これはあくまで『奉天三十年』本文中の用語として引用したものであり、本ブログの管理人には何ら差別的意図のないことをお断りしておきます)。
・当時の「満洲」、特に奉天庶民のすさまじい排外意識、西洋文明への偏見との戦い。
クリスティーはそうした障害と粘り強く戦い、地道な医療活動を通じ次第に現地人の信頼を勝ち取っていく。
30年後には、西洋医学は奉天において確かな信頼を確立するにいたった。
・当時の中国医学への批判
消毒していない針を刺すハリ治療や有害な膏薬、外科や解剖学の知識が皆無の医師。
迷信の横行や医師の言いつけをまるで守らない患者、痰を吐き散らす風習が結核を広めることなどなど。
しかし、マッサージや漢方薬の有効性は著者も認めている。
・中国人の「驚嘆すべき回復力」
ヨーロッパ人なら致命傷になる負傷でも、患部を接合しただけで治ってしまう。
・「東洋と西洋・誤った判断」 文化の違いについて
著者は多くの例を挙げているが、興味深いものを5つ。
①繁華街で急病にかかり、倒れた人がいても誰も助けない。
なぜそうなるかというと、もしその病人を助けた場合、助けた者がその病人のすべてに対し責任を負わねばならないから。
もしその病人が死んでしまった場合、「余計な世話を焼いた者がその男を死なせた」として非難されるし、ひどい場合には葬儀代も支払わせれることもあった。(今の中国でもそういった習慣は残っている。外国人は助けてくれるけど(万が一死なれたら国の面子に関わるので)、同胞にももう少しやさしくなってほしい)
②中国人の「忘恩」
以下、少し長くなるがなかなか示唆に富む部分なので引用(上巻p72~p73 旧かな、旧漢字は改めた)。
も一つ支那人に屡々投げかけられる非難は、忘恩ということである。多くの外国人は自分では親切である、仁慈であると思うことをなし、恵深い隣人若しくは福の神の役をつとめたつもりでも、彼等から恩恵を施された当の支那人は感謝せず、甚だしきは嫌悪の念を以て彼に報いる。こうしたことが起るのは、大抵の場合与うるものと与えられるものとの間にお互の理解がないからだ。支那人は考える、外国人はその為すところに対して報酬を受けているのだ、もしくはなにか裏面に動機があるのだ、何も感謝する理由はないではないかと。或いは恩恵の施し方が、彼等を怒らせたのかも知れない。彼等はそれを口に出して言うには余りに慇懃だが、さりとて感謝するところまでは行きかねているのである。支那人は自分が親切に待遇され、自分が何等要求権を有たざる物を受けたことを知れば、彼等の感謝は深甚且実際的である。我々は病院でこの事を三十年間経験した。実際、本国の慈善病院や病院に於けるよりも遙かに大なる感謝を受けたのである。(後略。以下著者は多くの貧しい中国人患者が退院後たくさんのお礼を持ってきてくれたことを記す)。
③もの惜しみしない。
寄付や贈答は分不相応なほど奮発。
④開放的な、自然的な、盛大なるもてなし
とにかくもてなし上手。親切。
⑤道理を非常に重んずる。
・煩雑な礼儀作法
クリスティーも大官たちや一般庶民とのつきあいでいろいろ苦労したらしい。
・日清戦争、「拳匪」(義和団)、日露戦争やペストの流行、アヘンが庶民にもたらした惨禍。
このへんの描写は読んでいて悲しく、やるせない気分になってくる。やはり戦争で真っ先にひどい目に遭うのは庶民だ。ページをめくるたびに人間の醜さや愚かさが身にしみるが、クリスティーや奉天の人々は激動の時代の中で常に前向きに困難に立ち向かい、多くの患者を救っていった。
なんだか「シンドラーのリスト」を思い出す。
・日本へのやや批判的な視点
日清・日露戦争での日本軍の規律正しさを評価する一方で、日露戦争後に勝利におごり高ぶった日本人が中国人を見下し、現地人に嫌われている様子を批判。また、多くの現地人が中国本土への帰属を望み、日本を警戒の目で見ていたことも記してある。
(こんな本を戦前に出版するとは勇気が要っただろう)
・歴代の奉天将軍・総督に対する人物評
趙爾巽や張作霖に対する高評価が面白い。
特に趙爾巽については多くのページを割いて、彼の有能さと清廉潔白、開明的な姿勢が奉天の近代化に貢献したとしている。
当時を知る貴重な証言。
現在の価値観からみれば不適当な描写もみられるが、著者の奉天庶民に対する人間愛が行間からあふれており、そのあたりが、自由主義者でありクリスチャンでもあった矢内原忠雄に翻訳の筆を執らせた理由だろう。
訳者序文では満洲国を讃えるようなことも書いている(そう書かざるを得なかった)が、同時に中国人への人間愛を強く呼びかけ、さらに日本にやや批判的な本書を訳したあたりにそれがうかがえる。