Twitterに疲れました
このあいだの一件でこれまでの公開アカウントを削除しました。
今はTwitterでしかつながりのない人向けの連絡用、情報共有用の暫定的アカウントを開設していますが、以前のような情報発信や意見表明は今後行わないつもりです。
削除したアカウントはこれまで6年間にわたり続けてきたアカウントで、フォロー先の方々が600以上、フォロワーさんも900以上に増えていただけに、愛着もありました。
でも、結果的には良かったのかもしれないと思い始めています。
理由は3つあります。
第一に、ツイートが恐ろしくなったことです。
フォロワーさんが増えたせいで、ちょっとした発言が多くの賛同を得て「バズった」ことが何度かありました。
1万を超えるリツイートと多くの引用コメント、返信をいただいたこともありました。
それらはほとんどがプラスの評価で、非常にうれしかったのですが、同時に心底恐ろしくなりました。もし、これが「炎上」だったらと。
何百、何千、何万もの人間に叩かれたら、私一人では対処不能でしょう。
そんなことがあり、それまでのように気楽に発言ができなくなりました。
実は、フォロワーさんが900を超えたころから、アカウントを一度削除しようかと悩み始めていたところでした。
アカウントを削除した理由はあくまで反省のためですが、正直に告白すれば、こうした悩みをずっと抱えていたのも事実です。
第二に、Twitter上の議論に疲れたことです。
まずなんといっても「水掛け論」なんですよね。戦後、リアルでもネットでもずっと繰り返されてきたこと。
自分の「見たいものしか見ない」点では上下左右いずれも変わりがありません。そして自分が「見たいもの」が100%肯定されないと気が済まず、議論は「水掛け論」からやがて相手を徹底的に叩く殲滅戦へと発展します。その後、「冷静」で「中立的」なつもりの方々がそんな様子を見て「どっちもどっち」論法を展開するというのがいつものお決まりのパターンです。
こうして肝心の問題は置き去りにされ、やがて忘れられていきます。
次に、Twitterで横行する「○○を批判するなら○○も批判しろ」論法も大嫌いです。
こういうのを「そっちこそどうなんだ主義 Whataboutism」というらしいですね。
例えば、「日本の人権問題を批判するなら、ウイグルはどうなんだ?」とか、「中国の問題を批判するなら日本の問題も批判しろ」とか、上下左右の人間が言い合ってますよね。誰にでも問題関心、能力、環境、立場の違いはあるのにそれを完全に無視しているのがなんともいえません。
内科医に向かって、お前は歯の治療ができないから「ヤブ医者」だと言ってるようなものだと思いますがね。
単に相手を「ダブスタ」だとして揚げ足を取るためだけにそうした議論を仕掛けているだけでしょうね。
こうして肝心の問題は置き去りにされ、やがて忘れられていきます。
そしてこういう上下左右の議論は結局の所、「世間」とか「空気」とか「政府・与党」とか「米国の傘」といった存在が許してくれる範囲のものでしかなく、食い足りないものを感じました。自分はそうした議論に賛成も反対もしてきましたが、どちらにしても一抹の違和感があり、それが心のなかに少しずつ溜まっていきました。
そう、上下左右の議論は結局の所、同じ穴のムジナです。
そしてマイノリティのことなんて考えもしない。考えているふりをしている方は多いようですが……。
そんな思考停止だから、「水掛け論」の「見たいものしか見ない」、「どっちもどっち」論法とか、「○○を批判するなら○○も批判しろ」論法をもてあそぶだけで一歩も前進しない。
そのツケはマジョリティよりも、我々マイノリティがより多く払うことになります。
というか、先祖代々払ってきましたんで。
そんなこんなで、Twitter上の議論(と呼ぶべきかどうかもはなはだ疑問な叩き合い)には疲れましたし、見ているだけでもウンザリしました。
第三に、Twitter上でのヘイトスピーチが目に余ることです。
もはや説明するまでもないでしょうが、女性、貧困者、外国人、障害者、アイヌ、沖縄、その他社会的弱者とマイノリティへのヘイトスピーチがTwitter上に充満しています。
Twitter Japan 社も見て見ぬ振りをしているようです。
こうした現状は現実社会をも浸食しつつつあります。
私も奄美人の血を引くマイノリティであり、かつASD/ADHDの当事者でもあり、生活も決して裕福とは言えません。マイノリティ、障害者、社会的弱者の一人として強く危機感を感じますし、Twitterのタイムラインはもはや見るに耐えません。
今後はタイムラインはできるだけ見ないようにしていきます。
Twitterで6年間続けてきた旧公開アカウントを削除したときは正直いって寂しい気持ちもありました。
でも、今はさっぱりした気分でもあります。
例えるなら、長い間伸ばしていた髪の毛をバッサリ切り落としてショートカットにしたような気分です。
(2024年1月10日、加筆修正)