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平野聡『大清帝国と中華の混迷』興亡の世界史12、講談社、2007年10月 

 

 本書は大清帝国が歴史上どういう意味をもつのか、現代の中国とどのようなつながりを持っているのか、そして中国と「中華民族」なるものがいかにして形成されたかについて解説を試みたもので、史実の概説書というよりも、清朝史を題材とした近代中国(漢族)ナショナリズム形成史としての性格が強い。

 
 以下、本書の内容を簡単に紹介していきたい。
  
 
 序章では最近の中国・韓国・朝鮮のナショナリズムを考察し、著者の問題意識を表明している。著者はまず「神武紀元」と「黄帝紀元」を例に挙げ、これら地域のナショナリズムは日本の明治維新以後のナショナリズムが他国へと波及することによって生まれたもので、一見互いに相容れないように見えて実は互いに似通っていること、次に日本人にとって本来自明の「東アジア」なるイメージが実は中国、韓国、朝鮮の人々の持つアジアイメージとはかなりかけ離れていることなどを取り上げ、こういった状況がなぜ生まれたのかを考える必要があるとしている。 
  
 著者はまず第一章で「華夷思想と明帝国」というテーマで、中国史を特徴付ける概念である華夷思想についてわかりやすく解説し、ついで明朝の華夷思想と朝貢貿易によるアジア世界の秩序の構築とその挫折について述べ、本論への導入としている。華夷思想とは皇帝を中心とする「天朝」の中華の文明が四方に拡散していくことにより天下(世界)を文明へと導くというもので、世界を色分けするのは文明(華)と野蛮(夷)であって、「天朝」以外の国家や民族、そして領土などと言う概念はない。したがって近代の国民国家、領域主権国家のナショナリズムとは本来全く違うものである。
 
 
 次いで、著者は第二章以降の本論で、明朝が果たせなかった「中華」によるアジア世界の秩序の構築という課題に清朝がどのように対処したかを述べている。
 清朝が明朝を受け継ぐ「中華帝国」であると同時に、モンゴル帝国から受け継いだ「大ハーン」としての権威、さらにチベット仏教の保護によりモンゴル、チベット、そして東トルキスタン(新疆)を版図に収めた内陸アジアの大帝国であったことはすでに多くの研究成果により明らかであるが、著者はチベット仏教という要素をより重視し、清朝皇帝がチベット仏教の保護者「文殊菩薩皇帝」として振舞うことでチベットから権威付けを得ることによって、モンゴルを初めとする内陸アジアに君臨できたことを繰り返し強調している。
 
 その後、清末の経世儒学者、そして近代的知識人・ナショナリストは、西洋列強や日本の外圧による国家分裂の危機に立ち向かうため、皇帝とチベット仏教という権威の下で多文化、多民族がゆるやかに結合していた「中外一体」の大清帝国を、漢人を中心とする近代的で強固な国民国家、領域主権国家としての「中国 China 」へと読み替える試みを行っていく。彼らは明治維新により近代化を実現した日本に倣って、均質で団結した国民と神聖不可侵の領土を持つ中国を作り出すことで、帝国主義列強に立ち向かおうとしたのだった。
 そしてその過程でそれまで自らの文化を保護されていたモンゴル、チベット人ら諸民族に対する近代化政策が行われていくが、それは自らの文化を守ってきた彼らに突然漢語や儒教を押し付け均質な「中国国民=中華民族」に作り変えようとするものだったため、多くの反発を招き、ついには独立や事実上の自立へと追いやってしまう。
  
 以下、私の感想を書いてみたい。
 
 まず、本書の大きな特色は明末からヌルハチの興起、康煕、雍正、乾隆の全盛期、そして清末までを一貫して取り扱っていることで、この点はユニークに感じた。清代を取り扱う概説書のほとんどはアヘン戦争を境目にして2冊に分断されていることが多いからだ。
 
 次に、最近の研究動向を反映し、チベット仏教の内陸アジア世界に対する役割の大きさにスポットライトをあて、現在のチベット問題ともからめつつ多くの紙数を割いている点も大きな特色。雍正帝や乾隆帝のチベット仏教徒としての面も紹介している。この姿勢自体は評価に価する。
 
 ただし著者の議論には問題点も多い。特に、同著者の『清帝国とチベット問題』(名古屋大学出版会、2004年)への石濱裕美子氏の書評(オカメインコの森:研究者が語る清・チベット関係によって指摘されているように、著者の図式化する「多民族統合」の存在が各民族側の一次史料により証明されておらず、もっぱら中国内地(漢地)からの視点、漢語史料、二次史料によってのみ論が進められているのは大きな問題だ。これは本書の記述が具体性を欠く大きな要因ともなっている。
 さらに「中外一体」思想をあたかも現代の中国の領域かつ「中華民族」の前提であるかのようにみなしているが、これはあくまで漢語史料に現れる漢族側の視点でしかない。
 こうしたテーマの解説には各民族の視点に立った、一次史料に基づいた具体的な研究の積み重ねが欠かせないのだが、著者の記述はそれらが不十分で、全体的に上滑りな感じがする。
 
 
 第三に、経世儒学者のナショナリズム思想にスポットライトを当てている点は新鮮だった。経世儒学者の思想は康有為、梁啓超ら近代のナショナリスト知識人出現の背景として重要でありながらこれまでの概説書ではあまり触れられてこなかった。
 
 前近代の「華夷思想」と近現代中国のナショナリズムを無批判に同一視することの誤りをちゃんと指摘している点は良かった。日本では現代中国の大国主義やナショナリズムを批判する際に、しばしば「華夷思想(中華思想)」というキーワードが持ち出されるが、本書でも述べているように両者は本来似て非なるものだ。
 

 全体的に見て、思想史分野では興味深い指摘も多いが、清朝史としては具体性が欠けている。本書はやはり中国(漢族)ナショナリズム形成史として読まれるべきだろう。
 
 

追記:記事冒頭にアマゾンの商品リンクを貼りました。
(2015.1.22)