笑って入り泣いて出て行く なぜ中国語を学び、今も学び続けているか
クリスマス企画として、2024年12月11日(水)から12月25日(水)のクリスマス当日まで特定のお題の記事を一つずつ掲載します。
名付けて「電羊齋お一人様 Advent Calendar 2024」。
電羊齋お一人様 Advent Calendar 2024 – Adventar
https://adventar.org/calendars/11205
私、電羊齋がお一人様アドベントカレンダーをやります。思いつくままにやりますのでよろしくお願いいたします。
12日目、12月22日(金)のお題は「笑って入り泣いて出て行く なぜ中国語を学び、今も学び続けているか」です。
笑って入り泣いて出て行く なぜ中国語を学び、今も学び続けているか
はじめに 笑って入り泣いて出て行く
「日本語を学ぶと、笑って入り泣いて出て行く」、これは中国の日本語学習者の間で長年言われ続けている言葉である。中国語では「学日语,笑着进去哭着出来」という。
中国人にとって、日本語は入門する時には非常に簡単だが、学べば学ぶほど難しくなっていくという意味だ。
中国語と日本語は漢字を使用しているという共通点があり、中国人にとって日本語は非常に取っつきやすい言語である。
だが、日本語の漢字は音読みと訓読みがあったりして読み方が複雑だし、話し言葉でも中国人にとって難しい発音があるし、活用と言葉の変化のルールも複雑。
初級の段階では楽だが、中級、上級へと登っていくにつれ、どんどん難しくなっていく。
そして「泣く」わけである。
これは「逆もまた真なり」で、日本人(または日本語母語話者)の中国語学習者も同じである。
中国語と日本語は漢字を使用しているという共通点があり、日本人にとって中国語は非常に取っつきやすい言語である。
だが、中国語の発音には声調のルールがあり、巻き舌音もあり、文法も難しい。
これまた初級の段階では楽だが、中級、上級へと登っていくにつれ、どんどん難しくなっていく。
そんなわけで多くの学習者は中級段階でもたついて、なかなか上級へと登れない。これは日本の中国語教育界で「さまよえる中級人(さまよえる中級者)」と呼ばれている。
さて、これから私の中国語学習歴について書いていきたい。
1 私と中国語との出会い(1992~1996)
私は中国の歴史と文化に惹かれて中国語に関心を持った。
そのきっかけについては下記の記事に詳しく書いたので、そちらをご覧ください。
なぜ私が東洋史と清朝史に関心を持つようになったか(上)――カンフー映画、『三国志』、『ラストエンペラー』など
私と中国語との出会いは大学1回生の頃に第二外国語として中国語を選択したときだった。
私が進学した大学では当時第二外国語として中国語、ドイツ語、フランス語という三つの選択肢があった。
志望選択用紙では第一希望に中国語を記入した。
動機としてはさきほど書いたように中国の歴史と文化に関心があったというのが最も大きかったが、同時に「同じ漢字を使っているんだから簡単だろう」という考えもあった(後にそれはとんでもない間違いだったと気がつくわけだが)。
もし万が一中国語を選択していなかったら、私の人生は完全に別の方向に進んでいたと思う。
そういうわけで第二外国語の授業で中国語を学び始めたがやはり取っつきやすかった。
テストでもいい点を取っていた。大学1~2回生の頃は中国語の初級段階だったので学習も簡単に進んだ。
先ほど紹介した言葉でいえば「笑って入り」である。
しかし、中国への関心が高まるにつれて、それでは満足できなくなった。
2回生を終わり、第二外国語としての授業がすべて終わったあとも、せいぜい初級~中級クラスで、話す方は全然ダメだったからだ。
「同じ漢字だから」という点に甘えて、中国語の文をただ日本語として目で追うだけで、中国語として理解していなかった。
いつのまにか単にテストでいい点を取り、単位を取るためだけの学習になっていた。
下記の別記事に書いたが、3回生の頃、中国語会話は「你好」(こんにちは)、「谢谢」(ありがとう)、「多少钱?」(これいくら?)がやっとのレベルだった。
なぜ私が東洋史と清朝史に関心を持つようになったか(下)――清朝史と漢文と満洲語/シベ語
そこで、3回生の頃から、1~2回生の頃に習った先生にお願いして、もう一度授業に(モグリとして)出させてもらうことにした。
4回生の頃も同様にモグリで授業に出て、中国語の初級から中級のレベルをもう一度やりなおした。
おかげで基礎をしっかり身につけることができたと思う。
また、4回生の頃には吉林省から来られた研究者の方とも交流する機会があり、いろいろ勉強させていただいた。
さらに、大学4回生から大学院修士課程時代にかけてのバイト先にも中国残留邦人の帰国者の方々がおられたので、中国語を話す機会があった。
2 中華圏音楽との出会いと陸上自衛隊時代(1996~2004)
大学の時の中国語の先生から中国ロックの草分け的存在の崔健の曲を紹介されたのをきっかけに中華圏の音楽を聴くようになった。
さらにテレサ・テン(鄧麗君)、フェイ・ウォン(王菲)などを聴くようになった。
中国語の学習は断続的に続けた。
1999年には中国語検定で準2級を取った。中級レベルになんとか到達したというところだろうか。
2000年春から2004年春までの陸上自衛隊時代、CDを聴いていたのは夜に半長靴を磨く時間だった。靴をきれいに磨いていないと腕立て伏せが待っている。
だが、靴磨きをしている時は座ってヘッドホンでCDを聴ける数少ない時間。そして私はフェイ・ウォンを聴いていた。忙しいときも1日5分でもいいから中国語テキストのCDか中華圏音楽のCDを聴くようにしていた。
その頃から中国のネットメディアの記事をチェックしたり、某駅前留学に通ったりして、中国語読解力を養うようにしていた。
自衛隊に残るにせよ、出るにせよ、中国語は役に立つと考えたからだ。
時々、上官の許可を得て、夜、誰もいない倉庫や物置で中国語の朗読や発音練習もした。
自衛隊時代は変わり者扱いされながらも、全体的には中国語学習を応援された。外国語を学ぶのは自衛隊という組織として当然だから。
今でもフェイ・ウォンの曲を聴くと、この曲を聴いてたときはこんなことがあったなあと、いろいろな思い出が蘇ってくる。
3、留学(2004~2006)
2004年4月2日、私は瀋陽の空港に降り立った。
あたりは一面の雪景色。前日に大雪が降ったとのことだった。
大学の関係者が車で迎えに来られており、留学先となる遼寧大学まで送ってもらえた。
留学前に中国語の日常会話をみっちり練習していたこともあり、大学の関係者とのコミュニケーションは問題なかった。
以後2006年の春までの2年間を瀋陽で語学留学生として過ごすことになる。
現地の学生などと「互相学習」(相互学習)、すなわち言葉を教え合うことになり、そのうちの一人がモンゴル族の男子学生、もう一人が満洲族の女子学生で、以後この二人と日本語、中国語を教えあうことになった。
その後、日本語を学ぶその他の学生、さらには日本語を学ぶ警察官(!)の方とも知り合いになり、言葉を教えあったり、中国の文化や社会について色々教えていただいたり、生活面でもいろいろ助けていただいた。
彼らがいなければ、瀋陽での留学生活は全く成り立たなかったといっていい。
特に、最初にあげたモンゴル族の友人とは現在に至るまで付き合いが続いており、まさに「アンダ」(モンゴル語、満洲語で大親友)。
中国語を教える先生方も面白い人が多かった。
その節はいろいろご迷惑をおかけいたしました。
ただ、授業も多人数クラスで会話練習が少なく、ただ教師の話を聞くだけという感じだった。
そこで、私の場合は、授業でできるだけ積極的に発言したり、ギャグを飛ばしたりして、教師の会話を引き出すようにしていた。
会話練習だけなら他の場所でもできるが、きちんと間違いを正してくれる教師が目の前にいる方がいいに決まっているので、授業時間内にできるだけ会話しようと必死だった。
毎日の「互相学習」では、学生たちと新聞を読みながら時事問題についても議論したりした。議論が白熱してくると、興奮して思わず机を叩いてしまったこともあった。今思えば、全く大人気なかったと思う。情けない。
幸い中国人学生たちが大人で助かったが。
彼らと本音で語り合ったのが留学生活最大の収穫だった。
授業のある日には、毎朝校門前の新聞スタンドで現地の新聞を買って休み時間に読んだりしていたし、時々図書館で自分の好きな清朝史関連の本を読んだりした。
授業や互相学習が終わり、部屋に帰ったあとも、ネットで中国人とチャットしたり、テレビの演芸番組、漫才やコントをできるだけ見るようにしていた。料理や家事をしている時もテレビをつけっぱなしにしていた。
さらには、バスや自転車で間に合う場合でもわざわざタクシーを利用し、なまりのきつい運ちゃんと会話したりすることもあった。
日本からビジネス中国語や中国語スラングの教材を送ってもらったりもした。
2005年には当時の旧HSK9級(現在の最上級の6級ぐらいに相当)を取れた。
このあたりでようやく上級に入りはじめたというところか。
4、現場通訳・翻訳者からフリーランス翻訳者へ(2004~現在に至る)
2006年春、私は大連郊外の金州にあったとある日系企業の現地工場で、現場通訳・翻訳者として働くことになった。
以後、数社を転々として、生産現場での現場通訳・翻訳者を務めることになる。
工場の技術用語、独特の業界用語、工員たちの方言に苦戦したが、そこで覚えた生産現場での中国語は後にフリーランス翻訳者での仕事に役立つことになる。
2007年12月、勤めていた会社が開店休業状態になったのをきっかけに、とある翻訳会社のトライアルを受けて、その翻訳会社から仕事をもらえることになり、フリーランス翻訳者としてデビューした。
以後、断続的に会社勤め、派遣翻訳者、アルバイトをしながらフリーランス翻訳者を続け、2019年夏からは専業のフリーランス翻訳者となり、現在に至る。
最初はどんな案件でも受けていたが、だんだん自分の得意分野ができてきた。現在では主に自動車分野、貿易分野の仕事を受けている。
特に自動車分野はEV(電気自動車)がまさに日進月歩の進化を遂げているので、毎日が勉強である。
以前はガソリン、軽油で動くエンジンの車だったので、生産現場で覚えた機械・金属工業の用語が役に立ったのだが、事実上最初から勉強し直し!
中国史、東洋史、歴史や文化への関心から中国語を学んだのに、今はEV関連の文書に頭を悩ませ、貿易関連の文書とにらめっこしている。「思えば遠くへ来たもんだ」と思う。
おわりに まだまだ泣く
中国語を学び始めた1992年からもう30年以上がたったが、未だに「俺は中国語を極めたぞ!」という感触を持つことができない。
学べば学ぶほど難しくなっていく。いつも泣いている。まさに「笑って入り泣いて出て行く」である。
今でも油断すると誤訳をしてしまうことがある。翻訳会社のチェッカーからの指摘を受けるたびに赤面している。
単にお前が不勉強なだけだと言われればそれまでなんだけど。
そんなに苦しい思いをしてまでしてなぜ中国語を学んでいるのかと問われれば、やっぱり「面白い」からかな。
翻訳の仕事をしているときはパズルを解いているような感覚があり、うまく訳せたときはパズルが解けたときのようなうれしさがある。
これからもまだまだ泣くことになるんだろう。