なぜ私が東洋史と清朝史に関心を持つようになったか(下)――清朝史と漢文と満洲語/シベ語

クリスマス企画として、2024年12月11日(水)から12月25日(水)のクリスマス当日まで特定のお題の記事を一つずつ掲載します。
名付けて「電羊齋お一人様 Advent Calendar 2024」。

9日目、12月19日(木)のお題は「なぜ私が東洋史と清朝史に関心を持つようになったか(下)――清朝史と漢文と満洲語/シベ語」です。

なぜ私が東洋史と清朝史に関心を持つようになったか(下)――清朝史と漢文と満洲語/シベ語

三、大学3回生~4回生 清朝史への関心(1994~1995)

さて、大学3回生になり、自分の専攻を選ぶ段階になったとき、中国近代史(19世紀以降)を選ぼうとも思ったが、結局その前の16~18世紀の清朝史を学ぶことにした。
自分の学ぶ時代を理解するなら、その前の時代から始めた方がいいという、東洋史の先生のアドバイスによるものだった。

そこで清朝史の概説書を読むことにした。
まずは、わかりやすいと評判の陳舜臣『中国の歴史 第12巻――清朝二百余年』(平凡社、1982年)から読み始めた。
その冒頭で取り上げられていたのが、中国新疆ウイグル自治区チャブチャルシベ自治県のシベ族(錫伯族)だった(『中国の歴史』の本文では「錫伯(シボ)族」と表記)。
清朝の支配民族だった満洲族には満洲語を話す人がほとんどいなくなっていること、だが辺境に守備隊として派遣されたシベ族は今もなお満洲語(シベ語。満洲語とは方言程度の違いで書き言葉はほぼ同じ)を保ち続けていることが紹介されていた。
私はこの箇所を読んで強烈な印象を受けた。私は、満洲族(満洲人、マンジュ人)とシベ族(シベ人)の歴史、清朝史へと一気に引き込まれていった。

そういう意味では、このシベ族のエピソードを冒頭に持ってきた陳舜臣氏の術中にはまったとも言える。

陳舜臣『中国の歴史 第12巻――清朝二百余年』(平凡社、1982年)、p5 チャブチャルのシベ族(標記は「錫伯族 シボ族」)についての紹介陳舜臣『中国の歴史 第12巻――清朝二百余年』(平凡社、1982年)、p4 チャブチャルのシベ族(標記は「錫伯族 シボ族」)についての紹介陳舜臣『中国の歴史 第12巻――清朝二百余年』(平凡社、1982年)、p3 チャブチャルのシベ族(標記は「錫伯族 シボ族」)についての紹介陳舜臣『中国の歴史 第12巻――清朝二百余年』(平凡社、1982年)表紙

それから中国語の文献にも手を伸ばしていった。
ただ、その頃はまだ古典漢文の読解練習をサボっていた、というか中国語で直読したらええやんという考えであった。
その結果大学院修士課程では漢文訓読をしごかれることになるのだが。

卒業論文のテーマは清朝の政治制度・八旗制度の変化がはたしてそれまでの通説のような「漢化」といえるようなものだったのかどうかを再検討するというテーマだったが、学部生の私の手に余る大きすぎるテーマであり、見事に腰砕けに終わってしまった。
(※近年では非漢族・少数民族の単純な「漢化」モデルはさまざまな研究により修正を迫られている)

大学院は2校を受けて2校とも合格。
地元関西大学大学院へ進学。

 

四、初めてと2回目の中国旅行(1994)

時間は前後するが、大学学部時代の2回の中国旅行について書いておく。
1994年の春に大学と旅行会社によるツアーに参加して、初めて中国を訪問した。
大阪の伊丹空港(関空が完成するのはもう少し後)から出発し、北京→杭州→成都→上海の順に旅行。
北京では故宮を見て『ラストエンペラー』の通りだと感激し、杭州では西湖の景観に魅了され、成都では諸葛亮を祀る武侯祠を見学して感動した。
特に成都では武侯祠に大感動し、現地ガイドさんにお願いして『三国志』好きの他の学生たちと武侯祠を2回も見に行った。
また、成都では本場の麻婆豆腐を食べた。日本の「激辛」の比ではない辛さだったが、味見した現地ガイドさんいわくそれでも控え目な辛さだったらしい。

ただ、現地の脂っこい料理と辛い料理のせいか腹を壊してしまい、上海あたりで完全にフラフラになってしまい、旅の終盤はあまり楽しめなかった。

 

2回目は同じく1994年の夏、今度は北京と中国東北地方へ。
バイトでお金を貯めて旅立つ。
当時は格安航空券が普及していなかったので、フェリー「燕京号」に乗り、神戸から2泊3日で天津に到着し、それから北京、瀋陽、長春、ハルビン、吉林、それからバスで瀋陽へ。
瀋陽から日帰りで撫順を見て、瀋陽から空路上海に入り、そこから鑑真号で2泊3日で神戸に帰り着いた。合計1か月弱の旅程。

私は日本国内ですら一人旅をしたことがない人間で、しかも当時の中国は今と比べものにならないほど不便。
そこへ持ってきて当時の私の中国語レベルは「你好」(こんにちは)、「谢谢」(ありがとう)、「多少钱?」(これいくら?)がやっとのレベル。
鉄道の切符を取るのすら一苦労。

北京では悪い奴にだまされたりもした。
しかし、東北地方では親切な人が圧倒的に多かった。
筆談でコミュニケーションを取り、1か月弱で手帳一冊を書き潰した。
その手帳は今でも私の宝物である。

「百聞は一見にしかず」というが、現地を訪れてこそわかることがたくさんあった。

五、大学院修士課程での日々、3回目の中国旅行、漢文・満洲語・インターネットとの接触(1996~2000)

第五章以降の内容については「私の「電脳清朝史」愛好史」とも重なる部分があるので、併読していただきたい。

1996年春、関西大学の修士課程に進学した。

修士課程ではなんとなく八旗の火器部隊をやってみようと思っていた。
元々私はミリタリーオタクだったし、火器部隊とりわけ清朝入関(1644)後の研究は意外と少ないので、自分が入り込む隙はあると思っていた。

しかし、いきなりレベルの違いに打ちのめされた。というか、私のレベルが低すぎたのだが。
たとえるならプロ野球に入ったばかりの新人選手のようなもの。

漢文も読めない、ゼミ発表でも「2回生並の発表」とこき下ろされる(事実その通りだったのだが)。
これではいかんと思い、毎日図書館の地下書庫にこもり、必死で史料や文献を読んだ。
関西圏の古本屋でも目を皿にして必要な史料や文献を探していた。
当時の日本の首相が誰だったか、世の中で何があったかよく覚えていない。その頃東洋史専攻の学生同士が恋愛していたらしいのだが、自分はまったく気づいていなかった。
それぐらい必死だった。
たぶん私の一生のうち一番勉強したのは大学院修士課程の2年間だったと思う。

1996年夏、3回目の中国旅行へ。
神戸から「燕京号」で天津に渡り、北京へ。それから瀋陽→図們→琿春→延吉→長白山(白頭山)→敦化→長春→山海関→北京と貧乏旅行した。
瀋陽からは撫順市の新賓満族自治県にまで足を伸ばし、ヌルハチの居城へトゥ・アラ城の跡を見学した。
当時はまだ観光開発されておらず、余計な「復元建築」が建っていなかった(余計な復元建築が建つのは日本のお城でもよくある話)。その時に行っておいて良かったと思う。
図們では中朝国境を見学し、琿春では中国・ロシア・北朝鮮の三角地帯を見学、そして長白山に登る。長白山は満洲人発祥の聖地とされていて一度は訪れてみたかった(長白山は韓国・朝鮮では白頭山と呼ばれ同様に聖地とされている。中国の朝鮮族、韓国人の観光客が多かった)。
敦化を経由して長春に出る。
長春では出版元の東北師範大学出版社を直接訪れ、『八旗通志初集』(『八旗通志』東北師範大学出版社、1985年)を購入。
『八旗通志初集』(『八旗通志』東北師範大学出版社、1985年)、『欽定八旗通志』(吉林文史出版社、2002年)と清朝史関連史料などが並ぶ本棚
北京でも史料を大量に買い込んだ。

さらに、北京では八旗の火器部隊である「火器営」の子孫の方の集住地である郊外の「火器営」という場所に行き、現地の「満族文化站」にてお話を伺ってきた。
当時は八旗制度に基づく地割(八旗方位)がまだ残っていた(その後の開発で消え去ってしまったのは残念)。
いきなりやってきた訳のわからない日本人を温かくお迎えいただき、今でも感謝している。あの時出していただいたジャスミン茶の味は今でも忘れない。そして、私の修士論文のテーマは「火器営」に定まった。

漢文については、毎週水曜日に『資治通鑑』の輪読会に参加。使用しているのは和刻本『資治通鑑』の「山名本」だった。

和刻本『資治通鑑』 全4巻、長沢規矩也解題、汲古書院,1973和刻本『資治通鑑』第4巻、奥付和刻本『資治通鑑』第4巻、馮道の死に関する部分 その1和刻本『資治通鑑』第4巻、馮道の死に関する部分 その2
毎週毎週先生や先輩方にしごかれた。
修士課程2年目のころには少しは読めるようになったが、それでも漢文はあまり得意ではない。

満洲語については、当時私の周りに満洲語ができる人がいなかったので、大阪外国語大学で満洲語の授業を受け持っていた先生に頼み込んでモグリで授業に参加させていただいた。
半年か一年ぐらい経って、なんとか史料が少し読めるようになった。

なお、自分が初めてインターネットに触れたのは1996年春に修士課程に入学した時だった。
その頃はちょうどインターネット黎明期で、中国史・東洋史におけるデジタル化・インターネット活用が始まった時代だった。
指導教授の研究室のパソコンで台湾の中央研究院歴史語言研究所(史語所)のデータベース「漢籍電子文献」にアクセスし、歴代の正史、多種多様な漢籍を検索できたときの衝撃は今でも忘れられない。こんな便利なものがあるのかと。
自分は清朝史を専攻しており、研究テーマに沿ったキーワードを検索し、それを元に『清実録』、『大清会典』その他多種多様な史料へと調査範囲を広げていった。

ただ、その頃は家業が傾いていたこともあり、まだ自分のパソコンを持ってはおらず、研究室で時々パソコンを使わせてもらう程度だった。
ゼミ発表や修士論文はワープロで書いていた。史料上の漢字でワープロにない漢字についてはコツコツ外字を作成していた。

大苦戦の挙げ句、1998年秋に半年遅れで修士論文「清代火器営考」https://talkiyanhoninjai.net/qingdaihuoqiyingkao を提出した。

修士課程を修了したころには気力も経済力も尽き果てており、博士課程後期(博士課程)に進学することはなかった。
それからは家業を手伝ったり、アルバイトをして生活し、インターネットと清朝史からはしばらく離れることになる。

 

六、陸上自衛隊にて(2000~2004)

陸上自衛隊に入隊した理由は、神戸市の就職説明会で自衛隊の地方連絡部(現在の地方協力本部)の募集担当者の方に騙されたからである、ゲフンゲフン、勧誘されたからだった。
他に職もないし、飯は食えないし、自衛隊というものに少し興味もあったので陸上自衛隊に入隊した。
なぜ陸上だったかと言えば、海上は船酔いするから嫌、航空は飛行機が落ちたらオシマイだというただそれだけの理由だった。

2000年の春に入隊してから3ヶ月間は大津駐屯地で新隊員としての基本を叩き込まれた。
募集担当者の方はいいことをたくさん言ってたけど、入ってみれば「えらいこっちゃ!」の連続だった。
その頃は歴史関連の本を読む余裕などあるはずもなく、鬼軍曹にしごかれながら、脱落しないよう訓練についていくに必死だった。
修士論文の頃に火縄銃について調べていたが、まさか実際に銃に触れることになるとは思ってもいなかった。初めて銃を持ち、実際に撃った時のことは忘れられない。
戦闘訓練では泥まみれになって、必死で匍匐前進していた。
あの時の鬼軍曹の指導ぶりは文字通り鬼だったなあ(それでも優しい方らしいが)。
毎日起床ラッパが鳴ってから、消灯ラッパが鳴るまで、ひたすら追いまくられていた。
失敗したら連帯責任の腕立て伏せが待っている。
んまあ、私も散々失敗して同じ班のみんなの筋力アップに大いに貢献してしまった。

ただ、中国史・東洋史への思いは消えておらず、たとえ一日5分でも中国語のCD、中国語曲のCDを聴くようにしていた。特にフェイ・ウォン(王菲)の曲は心の慰めになった。
CDを聴いていたのは夜に半長靴を磨く時間だった。靴をきれいに磨いていないと腕立て伏せが待っている。だが、靴磨きをしている時は座ってヘッドホンでCDを聴ける数少ない時間だったため、新隊員のみんなはそんな貴重な時間を利用してCDを聴いていた。そして私はフェイ・ウォンを聴いていた。
大学院修士が陸士(一兵卒)として入隊し、しかも中国マニアということで、まわりには変わり者扱いされたが、同時に大いに助けてもらった。
その時同じ営内班(大部屋)だった隊員・元隊員、そして鬼軍曹殿とは今でも交流が続いている。

次の3ヶ月間は各職種の専門教育の期間で、その頃には少しまわりを見渡す余裕もできた。
教官が「走れ走れ」な人で、毎日ハードなトレーニングと座学を課せられ、熱中症でぶっ倒れ、血尿も出した。
そんな中でも半長靴をピカピカに磨きながら、フェイ・ウォンのCDを聴き、中国語を忘れないようにした。
その頃、『ファイナルファンタジー』というゲームでフェイ・ウォンの曲が使われたこともあり、フェイ・ウォンについて色々聞かれたことも。
貴重な自由時間には、顧頡剛著、平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち――古史弁自序』(岩波文庫)を読み、中国史・東洋史への思いを忘れないようにしていた。

そして半年の教育期間が終わり、中隊へと配属。2000年の秋に自衛官生活が本格的に始まった。
そして初めてノートパソコンを買った。
パソコンを買った目的はまずデスクワークのためのパソコンの勉強、次になんといってもインターネットだった。

自分の配属先はデスクワークが主体で、パソコンの知識は必要不可欠だった。
パソコンの基本的な使い方は自衛隊で学んだといっていい。
また、暇を見てタッチタイピングの練習にも励んだ。
言ってみれば、「自衛隊」という名のパソコン教室に通ったようなものだった。

自衛隊生活で経済的な余裕ができたので、余暇や休暇には京都の朋友書店、古本屋街、さらには東京に遠征して神保町の東方書店と古本屋にも足を運んで、本を買ったりもした。

自分のロッカーには戦闘服とともに清朝史関連の本も入れるようになった。
戦闘服の隣に『八旗通志』が並ぶという今思えば凄いロッカーだった。

また、その頃から中国のメディアのウェブサイト・メルマガの記事をチェックしたり、某駅前留学に通ったりして、中国語読解力を養うようにしていた。
自衛隊に残るにせよ、出るにせよ、中国語は役に立つと考えたからだ。

自衛隊生活でいろいろな貴重な経験をした。本を一冊書けるぐらいのネタはある(各方面に迷惑がかかるので実際には書かないが)。
八旗制度と陸上自衛隊のいろいろな制度を頭の中で比較したりもした。
やっぱり似ている点が多かった。特に八旗制度における「ニル niru」と現代における「中隊」は隊員の生活と有事の際の行動における基本単位であり、機能も規模も非常に類似しており、「ニル niru」を英語で“company(中隊)”と訳す理由がよく理解できた。
そのほかにも、「史料に書いていることは実はこういうことだったんだ!」と気づかされることが多かった。
たまに演習にかり出され、偽装して顔にドーランを塗って、山の中を何日もあちこち動き回った時の経験も、東洋史と清朝史を理解する上でのヒントをいろいろ与えてくれたように思う。

だが、自衛隊では昇任試験に落ち、また挫折も経験し、自衛隊での将来像が描きにくくなった。
そこで、自衛隊生活の4年間でお金が貯まったこともあり、2任期4年で除隊し、中国の瀋陽へ語学留学することにした。
瀋陽を選んだ理由は、まず第一に清朝のルーツである遼寧省に住んでみたかったこと、第二に中国語学習に集中するため日本人留学生が比較的少ない地方都市にしたかったということだった。

2004年春、いろいろなことがあった自衛隊を除隊。
瀋陽へ。

 

七、瀋陽にて(2004年~2006年)

2004年4月2日、私は瀋陽の空港に降り立った。
あたりは一面の雪景色。前日に大雪が降ったとのことだった。

大学の関係者が車で迎えに来られており、留学先となる遼寧大学まで送ってもらえた。
その日のうちに大学の留学生宿舎に入居。新しい留学生宿舎はまだ出来上がっておらず、古い留学生宿舎だった(同年7月に完成)。

以後2006年の春までの2年間を瀋陽で語学留学生として過ごすことになる。

留学生は韓国人留学生が6~7割、2割が日本人、残りがロシア、旧ソ連、欧米諸国というところだった。

とりあえず日本人留学生たちに挨拶し、前もって発送しておいた荷物を受け取りに行った。ちょうど週末だったので、翌日は日本人留学生たちと瀋陽の街をブラブラした。
月曜日頃日本語科で日本語を担任する日本人のS先生に挨拶に行き、日本語科の授業で学生たちに紹介していただけることになった。
日本語科の授業では、新しく来た留学生が次々と自己紹介をし、私の番が回ってきた。
まず日本語と中国語で自己紹介をし、自分が満洲語と清朝史に興味があると言ったあと、黒板に自分の名前を満洲文字でサラサラっと書いた。あと、大阪人だというのを強調するため、「六甲おろし」も歌った(今思えばアホですな)。
授業が終わった後、興味を持って私の前に来た学生さんたちは満洲族やモンゴル族が多かった(モンゴル文字と満洲文字は基本的に同じ)。
そのうちの一人がモンゴル族の男子学生、もう一人が満洲族の女子学生で、以後この二人と日本語、中国語を教えあうことになった。その後、日本語を学ぶその他の学生、さらには日本語を学ぶ警察官(!)の方とも知り合いになり、言葉を教えあったり、中国の文化や社会について色々教えていただいたり、生活面でもいろいろ助けていただいた。

彼らがいなければ、瀋陽での留学生活は全く成り立たなかったといっていい。

特に、最初にあげたモンゴル族の友人とは現在に至るまで付き合いが続いており、まさに「アンダ」(モンゴル語、満洲語で大親友)。

瀋陽では瀋陽故宮をはじめとする清朝の史跡を見学。
ちょうど清朝の関外三陵、瀋陽故宮が世界遺産に認定された時期でもあり、瀋陽は清朝の話題でもちきりだった。

2004年夏、西安、漢中、上海、杭州を旅行。
西安郊外の五丈原と漢中の定軍山の武侯祠にも参拝。あの羽扇も買ってきた。

充実した一年だった。

2005年春節は先程のモンゴル族の友人の実家へ。
毎日飲まされまくってエライ目に。モンゴル族は酒をガンガン飲むし、料理やお菓子も脂っこいモノが多い。
ユーラシア大陸を征服した秘密はどうやらこれらしい。

友人とその両親、親戚に「蒙古襲来絵詞」見せたらけっこう喜んでたなあ(苦笑)

 

2005年5月から今のブログを開始。
中国語の簡体字が使えるという理由で選択。
中国語の勉強を兼ねて中国語で日記を書いたおかげで、ネット上で多くの方と知り合いになれた。
またブログに満洲語や清朝史の記事を載せたおかげで、清朝史・満洲語の研究者の方や満洲族・シベ族の方とも知り合えた。

8月には新彊ウイグル自治区へ旅行。

現地ではいろいろな場所を観光し、ウイグル、漢、シベ、カザフ各民族のみなさんに親切にしていただいた。
特にイリ地方、グルジャ(伊寧)のカザフ族ガイドは親切丁寧な案内ぶりで感心した。
シベ族の集住するチャブチャルシベ自治県(察布查尔锡伯自治县)では、生きた満洲語・シベ語に接することができた。シベ族は清代に守備隊として瀋陽付近からはるばる新彊へ派遣され、今でも清代の満洲語を保持している。陳舜臣『中国の歴史』を読んで以来、現地を訪れるのをずっと夢見ていた。
自分が習った清代の満洲語がシベ族に通じた時の感動は忘れられない!

その時のことを書いたブログ記事が今でも残っている。
現地のネットカフェで打ち込んだので中国語記事。

我在伊犁

https://talkiyanhoninjai.net/archives/1158

 

2005年の秋からは就職活動。大連のとある企業への就職が内定。

2006年春から大連へ。
トラック一台を1500元で雇い大連へ引越し。
なにせ瀋陽で本を買いまくったので、荷物が増えてしまった。

 

八、大連時代(2006~2012)

2006年春、私は大連郊外の金州にあったとある日系企業の現地工場で、現場通訳・翻訳者として働くことになった。
瀋陽から金州の新居に引っ越して、再びブロードバンド回線を引いた。
その後数回の転職と転居を繰り返し、大連市内に落ち着き、在宅フリーランス翻訳者として活動することになる。

2000年代後半当時はネットでの情報発信も新たな時代に入り、情報発信手段もそれまでのホームページや掲示板からブログやSNSへと移行し始めていた。
さらに2010年前後には、Twitterの登場により、情報発信のハードルがどんどん下がっていった。
ネット上の無料百科事典であるWikipediaもこのころから広まったように思う。

学術情報のついても同じことがいえ、京都大学学術情報リポジトリ「KURENAI」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/ 、東洋文庫リポジトリ「ERNEST」 https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/ など各大学・研究機関の学術情報リポジトリが整備されはじめ、論文と学術情報の入手が格段に便利になった。

Amazonなど通販ビジネスも急成長し、日本で発売された書籍の入手で大いに助けられた。

また、株式会社はてなのブックマークサービスである「はてなブックマーク」が流行っていたので登録。
最初は時事問題のブックマーク、コメントに利用していたが、2010年頃からは学術情報のブックマーク用として利用するようになった(1)筆者のアカウントURLは https://b.hatena.ne.jp/bitheiboo/ である。

中国においてもそうした傾向は変わらず、数々のブログサービスやSNSが雨後の筍のように登場していた。
中国のとある清朝史研究者もブログを運営しており、それがきっかけでその研究者の方と交流が始まったこともあった。
そして、私も中国のSNSである新浪微博(日本のマスメディアでは「中国版Twitter」として紹介されることが多い)に登録してみた。ただあまり利用せず、事実上の「ROM専」となり、現在はアカウントを完全に放置したままになっている。
中国のネット上の無料百科事典の百度百科 https://baike.baidu.com/ も広く普及していった。Wikipediaと同じく、記事の質については玉石混淆というところだが、情報検索の取っ掛かりとしては利用しやすい。

史料・典籍では、1990年代末以降、『四庫全書』(2)文淵閣『四庫全書』原文電子版、武漢大学出版社、1999年。画像版。全文検索は不可能。Windows10では動作せず。、『清実録』(3)『清実録』超星数字図書館。画像版。全文検索は不可能。画像は『清実録』(中華書局、1985-87)のもの。などのCD-ROM媒体によるデータベースが登場し、以後多くの史料・典籍がCD-ROM媒体またはネットワーク上に登場し、現在に至る。

中国における学術情報発信で特に注目すべきは、大規模論文データベースの「CNKI 中国知網(China National Knowledge Infrastructure)」 https://www.cnki.net/ (海外版 https://chn.oversea.cnki.net/index/ 論文本文の閲覧は有料、検索は無料)である。このデータベースにより、中国での先行研究検索、閲覧は文字通り飛躍的に便利になった。日本のデータベースも及ばない大規模さと利便性である。自分の分野について検索してみると、1990年代以降の主要な先行研究はほぼ検索可能であった。

さらにはそれまで紙でのみ発行されてきた学術雑誌の電子版も次第に公開されるようになった。

清朝史分野では、中国の『清史』編纂プロジェクトを実行する国家清史編纂委員会の公式ウェブサイトである「中華文史網」 http://www.historychina.net/ が開設以来精力的に学術情報を発信しており、私も時々チェックしていた。中国人民大学清史研究所のウェブサイト http://iqh.ruc.edu.cn/ も学術情報を豊富に発信している。
満洲人自身による情報発信では、当時「吉祥満族」(http://www.manchus.cn/ 現在ウェブサイトは削除済み)やフォーラム「満族在線」http://www.manjusa.com/forum.php などといったサイトが盛んに活動しており、満洲人のネット上の活動を知る上で興味深かった。

中国においても通販ビジネスは急成長し、それまで一般書店では入手困難だった清朝史・満洲語関連書籍を自宅にいながらにして簡単に入手できるようになった。特にAmazonの中国法人のウェブサイトは頻繁に利用させてもらっていた(4) https://www.amazon.cn/ 現在は書籍の販売を停止。。

2000年代、特に2000年代後半以降の学術情報発信の爆発的な大発展により、私の清朝史の勉強も大いに助けられた。
紙の学術雑誌も購読してはいたが、ネットによる学術情報発信の大発展により、特に中国においては徐々にネット上での学術情報収集へと移行していった。

大連の自宅では、仕事の合間を縫って読書やブログの更新、後述のTwitterの更新を行い、それがきっかけで研究者との交流が本格的に始まり、大連、中国に来られる研究者の方とお会いすることもあった。

そして2011年の初めにTwitterを始めてみた。
最初は学術情報の収集や発信というより、中国の時事問題についての発言に使用していたが、2012年5月にとあるユーザーの方と揉めたことでいったんアカウントを消去して再登録。以後、学術情報の収集を中心とするようになる。
その後も別アカウントを作ってみたり、削除してみたりして、2023年8月まで続けることになる。

大連での6年間は大変充実していた。
その後、さまざまな事情があり、2012年の秋に日本に本帰国することになる。

 

九、帰国後(2013~2020)

さて、いろいろあって大連から帰国したわけだが、それからが大変だった。
在宅翻訳だけでは食べて行けず、いろいろな職を転々とするも結局は長く定着することができなかった。
2016年4月から2018年3月までの2年間の派遣翻訳者の仕事が最長だった。
気力と経済力を削られ、心身を病み、2019年頃には八方塞がりの状況だった。
2012年から2019年は、人生で最も辛い時代だった。

ただ、そんな中でも、清朝史のことだけは忘れないようにしていた。

そんな私を助けてくれたのが、2010年代に急速に進んだ学術情報のデジタル化そしてネットワーク化だった。

日本での生活では、(三)でも述べた日本の学術リポジトリ、中国のウェブサイトに大いに助けられた。
加えて、2010年代には日本、中国、台湾での情報化技術の発展に伴い、学術情報のネットでの発信もますます発展した。
生活が苦しくて中国、台湾現地を訪れるのが困難だったし、学術書・学術雑誌の購入・購読もままならない状況だっただけに、まさに旱天の慈雨といったところだった。
なかでも、中国における清朝史研究誌の中心的存在である『清史研究』の電子版 http://qsyj.ruc.edu.cn/CN/1002-8587/home.shtml の公開が開始されたのは本当にありがたかった。

日本でも、2016年以降、満族史研究会の会誌『満族史研究』の電子版(5)『満族史研究』の電子版の公開は国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)の「中国・アジア研究論文データベース」https://spc.jst.go.jp/cad/homes で行われている。詳しい閲覧方法は本ブログの以下のページを参照されたい。「『満族史研究通信』・『満族史研究』がネットで見れます」 https://talkiyanhoninjai.net/archives/6542 の公開が開始され、これまた本当にありがたかった。

韓国でも国史編纂委員会が運営する『朝鮮王朝実録』http://sillok.history.go.kr/main/main.doと『明実録』・『清実録』http://sillok.history.go.kr/mc/main.do のネット上での公開・全文検索サービスが提供され、引き続き台湾の中央研究院歴史語言研究所でも韓国の国史編纂委員会との協力により『朝鮮王朝実録』と『明実録』・『清実録』http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mql/login.html の公開・全文検索サービスが始まった。
いつでもどこでも『実録』にアクセスでき、簡単に全文検索ができるようになるとは、自分が清朝史を学び始めた頃には想像もつかなかった。

フランス国立図書館(BnF)が運営する電子図書館ガリカ Gallica https://gallica.bnf.fr/、ドイツのベルリン州立図書館 Staatsbibliothek zu Berlin] https://staatsbibliothek-berlin.de/ でも満洲語文献の公開が行われるようになり、研究者の方々を通じてそのことを知った。

日本でも数々の図書館・研究機関による史料・文献の公開がますます進展した。

なかでも自分にとっての大きな朗報は、2018年に始まった東京大学総合図書館(現在は東京大学アジア研究図書館デジタルコレクション(6)https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/page/home)による『八旗満洲氏族通譜』満文本の公開であった(7)https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/item?search=%E5%85%AB%E6%97%97%E6%B0%8F%E6%97%8F%E9%80%9A%E8%AD%9C『八旗満洲氏族通譜』は乾隆九年(1745)に成立した、八旗の八旗満洲所属者の系譜を集めた書。纂修当時までの系譜、主要人物の伝記が収められている。満文本と漢文本があり、漢文本の『八旗満洲氏族通譜』は遼瀋書社から影印本が刊行されている(『八旗満洲氏族通譜』遼瀋書社、1989年)。。同書は満洲人の系譜と人名を知る上で有用で、特に満文本は満洲人の満洲語での名前の綴りを知るのに便利である。例えば、とある満洲人の漢字名から満洲語での名前の綴りを知りたい場合、まず漢文本で漢字名の掲載箇所を探し、それから満文本で該当箇所に当たって、その人物の満洲語での名前の綴りを知ることができる。

また、Twitter上では研究者および出版社により歴史系書籍の出版情報・書誌情報が盛んに発信されている。さらにはTwitterおよび読書管理サービス「読書メーター」(8)https://bookmeter.com/ 筆者のアカウントURLは https://bookmeter.com/users/383213 である。では、歴史研究者・愛好者による感想・書評も盛んに発信されるようになった。
私も2012年頃からはこうした情報を本選びの参考にするようになり、「ハズレ」な本をつかまされることが大幅に減った。

Twitterでは多くの清朝史の研究者・愛好者の方々と知り合う機会を得ることもでき、ネット上で議論や情報交換を行うだけでなく、研究会などの席で実際にお会いするようになった。
私のような浅学菲才の徒を暖かく迎え入れていただき、感謝感激であります。

こうした学術情報のデジタル化そしてネットワーク化がなければ、とうてい清朝史・満洲語の勉強を続けることはできなかっただろう。
経済的に追い込まれ、心身を病む中、清朝史は自分にとって数少ない明るい希望だった。

さて、2019年6月、今のところ最後となる勤め先を退職したころには心身ともに疲れ果て、経済力もゼロに等しかった。
精神的にも身体的にも満身創痍、さながら「生ける屍」だった。
そこで7月以降は、心身と経済力を立て直すため、福祉制度に頼れる部分は頼りつつ、リハビリも兼ねて在宅翻訳の仕事を少しずつ増やすようにしていた。生活を見直し、規則正しい生活とバランスの取れた食事を心がけ、また読書時間を増やすなどした。
生活がようやく立ち直ってきて、再び清朝史に目を向ける余裕が生まれてきた。

そして2020年を迎えることになる。

 

十、コロナ禍、そして現在に至る(2020~2024)

2020年に入り、ようやく立ち直ってきた。
正月休みにはいろいろな本を読み、充電ができた。

さあ、これから!というときだったのだが……。

何が起こったかと言えば、御存知の通り新型コロナウイルスである。
在宅翻訳の仕事が軌道に乗り始めた4月頃、前の年(2019年)に勝ち取った定期翻訳案件がコロナ禍により一瞬で消し飛んだときには愕然とした。
せっかく着慣れない背広を着て営業したのに……。

多くの図書館が閉鎖され、学会・研究会も軒並み中止となっていった。

そんな中で注目されたのはやはりインターネットだった。

台湾の中央研究院歴史語言研究所が9月末までの期間限定で海外研究者向けに「漢籍電子文献」と「内閣大庫檔案」(9)http://archive.ihp.sinica.edu.tw/mctkm2/index.html の有料部分を無料開放(現在は終了)していただけたのは本当にありがたかった。さらには、『中央研究院歴史語言研究所集刊』の電子版(10)https://www2.ihp.sinica.edu.tw/publish2.php?C=53&M=2&TM=5の無料公開も始まった。

満洲語のオンライン読書会も生まれている。Twitter上の有志が結成した「アジゲの会」(アカウント:@Ajige1)という読書会では、2020年7月から隔週日曜日の午後にZOOMにて清代の満文(満洲語)歴史史料の読解と日本語訳を行っている。7月からは満文『八旗通志』のアジゲ伝を読んでいる。毎回活発な質問と議論が行われ、回を追うごとに盛り上がっている。不肖私も末席を汚させていただいており、満洲語を学習し読解する上で大いに刺激を受けている。

また、最近では中国のSNSである微信(WeChat)で、中国の清朝史関連の研究機関、学術雑誌の公式アカウントをフォローしている。微信は2014年、当時勤めていた会社の中国の取引先との連絡のためにアカウントを登録したが、退職後はほとんど使っていなかった。その後中国でLINEが使えなくなったため、微信を友人知人との連絡に使うようになり、最近では学術情報の収集にも使うようになった。自分がフォローしているのは「中華文史網」、「瀋陽故宮博物院」と学術雑誌の『清史研究』(アカウント名は「清史研究杂志」)、『故宮博物院院刊』、『満族研究』のアカウントである。スマホでも手軽に清朝史の情報に触れられるようになり、便利な世の中になったものだと思う。

 

2023年8月、X(旧Twitter)の数々の改悪ぶりとイーロン・マスクの横暴ぶりに嫌気が差し、というかブチ切れて、Xのアカウントを完全に削除。
それからは自ブログに回帰した。言ってみれば実家に帰ったようなものだろうか。
さらにThreads、さらにMastodon、りんごぱいなどFediverseにも進出。

ここ数年は中国の通販サイト『京東』https://global.jd.com/ 、ウェブサイト『日本の古本屋』 https://www.kosho.or.jp/ などで中国書を買いあさっている。
さらに京都に住んでいる地の利を活かして、古本市にもたびたび足を運び、本を買いまくっている。

そんなこんなで2021年には少し広い部屋に引っ越す羽目になった。本の量が多すぎて引っ越し屋さんに呆れられた。

今年2024年には神保町にも遠征して本を買いまくった。

学会にもほぼ毎年足を運ぶかオンラインで参加。
研究者の方と交流したり、最新の研究動向を吸収するようにしている。

 

おわりに

これが私が東洋史に関心を持ち、関心を持ち続けてきた歴史である。
まあ、いろいろあったが、飽きっぽい自分がよくもまあ長いこと一つの趣味を続けてきた物だと思う。
これからも続いて行くだろう。
なにやら自分史のような内容になってしまった。

以上、まとまりのない文章にお付き合いいただきましてありがとうございます。

戻る1 筆者のアカウントURLは https://b.hatena.ne.jp/bitheiboo/ である。
戻る2 文淵閣『四庫全書』原文電子版、武漢大学出版社、1999年。画像版。全文検索は不可能。Windows10では動作せず。
戻る3 『清実録』超星数字図書館。画像版。全文検索は不可能。画像は『清実録』(中華書局、1985-87)のもの。
戻る4 https://www.amazon.cn/ 現在は書籍の販売を停止
戻る5 『満族史研究』の電子版の公開は国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)の「中国・アジア研究論文データベース」https://spc.jst.go.jp/cad/homes で行われている。詳しい閲覧方法は本ブログの以下のページを参照されたい。「『満族史研究通信』・『満族史研究』がネットで見れます」 https://talkiyanhoninjai.net/archives/6542 
戻る6 https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/page/home
戻る7 https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/asia/item?search=%E5%85%AB%E6%97%97%E6%B0%8F%E6%97%8F%E9%80%9A%E8%AD%9C『八旗満洲氏族通譜』は乾隆九年(1745)に成立した、八旗の八旗満洲所属者の系譜を集めた書。纂修当時までの系譜、主要人物の伝記が収められている。満文本と漢文本があり、漢文本の『八旗満洲氏族通譜』は遼瀋書社から影印本が刊行されている(『八旗満洲氏族通譜』遼瀋書社、1989年)。
戻る8 https://bookmeter.com/ 筆者のアカウントURLは https://bookmeter.com/users/383213 である。
戻る9 http://archive.ihp.sinica.edu.tw/mctkm2/index.html 
戻る10 https://www2.ihp.sinica.edu.tw/publish2.php?C=53&M=2&TM=5