岳鍾琪(中)

岳飛の子孫?
 このように西北で大兵を握ることとなった彼の周囲では、やがて彼が岳飛の子孫であるといううわさが立ちはじめる。そもそも姓が岳であるし、名将ぶりも大したものである。
 
 (しかしながら、彼が本当に岳飛の子孫であるのか、また本人がどこまでそれを意識していたのかはよくわからない)
 
 ただ、彼が単に「岳飛の再来」と言われているうちはまだよかったのだが、そのうちに噂がエスカレートし始めた。
 
 岳飛は女真族の金と戦った武将である。清は女真族の後身たる満洲族が立てた王朝である。そして岳飛の子孫である岳鍾琪は先祖と同じく女真(満洲)族を打倒しようとしている。
 
 このような噂がまことしやかにささやかれるようになり、やがて雍正帝の耳にも入るようになった。おそらく、スピード出世を果たした彼への嫉妬やねたみが引き起こした噂であったろう。
 雍正帝はむろん本気にはしなかったが、雍正六年(1728)のある日、ある男がそれを頭から信じ込んでしまったことで話は思わぬ方向へころがることとなった。
 
 その男の名は曾静。在野の学者だったのだが、明の遺臣呂留良の反満思想にすっかりのめりこんでしまい、日々満洲族打倒を念じつつ生活していた。そこへ「岳鍾琪は岳飛の子孫」という噂が舞い込んだものだからすっかり舞い上がってしまったらしい。
 そしてなんと弟子の張煕を岳鍾琪の所に派遣して、「あなたは岳飛の子孫なのだから立ち上がって清を倒して漢族の国を取り戻すべきだ」と言わせたのだった。
 
 張煕を迎えた岳鍾琪は話を聞いてびっくり仰天。すぐに彼をひっとらえて北京へと護送させ、同時に曾静についても上奏した。彼にとっては非常に迷惑な話だったろう。
 雍正帝は曾静に論戦を挑み、自己批判をさせ、彼の罪を許して釈放。論戦の結果は『大義覚明録』として出版させたがここでは詳しく触れない。
 
 岳鍾琪はこの迅速な処置によって、さらに帝の信頼を勝ち得ることになった。もし少しでもためらいを見せていれば、数年前の年羹堯と同じ運命をたどったであろう。
 
(つづく)