マンゴーとマンボー 台湾と清朝の満洲(マンジュ)人官僚
台湾のマンゴーを康熙帝に献じることが記されている満洲語の奏摺(私信形式の上奏文)があるというので、いろいろ調べているとなかなか奥が深い。
マンゴーを送ったのは閩浙総督(福建・浙江両省の行政・軍事を担当)の満洲(マンジュ)人の旗人官僚ギョロイ・マンボー gioroi mamboo(覚羅満保)(康熙十二年(1673年)~雍正三年(1725年))で、当時の台湾および台湾原住民に対する政策に深く関与している人物らしい(当時の台湾は福建省が管轄)。
ギョロイ・マンボーは康熙五十年(1711年)十一月三日(1711年12月12日)に福建巡撫(福建省の行政・軍事を担当)に任じられ、康熙五十四年(1715年)十一月十一日(1715年12月6日)に閩浙総督に任じられ、雍正三年(1725年)十月十日(1725年11月14日)の死去まで務めている。康熙五十六年(1717年)には台湾原住民7名と台湾の犬を当時熱河の離宮に滞在していた康熙帝の下に送っている。
ちなみに、ギョロイ・マンボーとは「ギョロ gioro 覚羅」の「マンボー(人名)」という意味である。「ギョロ gioro 覚羅」というのは清朝の皇族の分類の一つで、清朝の初代皇帝太祖ヌルハチ nurhaci の祖父ギョチャンガ giocangga らの六兄弟(ニングタのベイレ ninggutai beise(六王、六祖))の子孫のことをいい、ヌルハチの父タクシ taksi の子孫で構成される「ウクスン uksun 宗室」よりも遠縁の皇族を指す。ギョロイ・マンボーは遠縁の皇族というわけである。
とはいえ、ギョロは名目上は皇族待遇だが、雍正年間あたりまでは、高位への取り立て、刑罰の減免などといった実質的な皇族特権はほとんどなかったらしい。このギョロイ・マンボーの経歴を見ても、科挙を受験して少しずつ出世の階段を上っている。
これらのことを調べ始めると沼にはまりそうなので今日はとりあえずこの辺にしておく。
原文書(檔案)は以下の通り。
ザッと読んでみると「マンゴー」は満洲語で「fan suwan」と記されている。台湾語の「番檨」の音写らしい。
マンゴーに関する奏摺は2通あるが、いずれも康熙帝の赤字で「次は送ってこなくていいよ」とコメントされている。
《宮中檔滿文奏摺-康熙朝》,覺羅滿保 奏,〈奏進臺灣番子土產芒果等物摺〉,康熙58年03月28日,故宮156215 號,件 1 ,國立故宮博物院 ⋈ 清代檔案檢索系統,(2025/08/24瀏覽)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/4665841CNYXXRB#43F《宮中檔滿文奏摺-康熙朝》,覺羅滿保 奏,〈奏進臺灣芒果及武夷山茶葉摺〉,康熙58年04月29日,故宮156221 號,件 1 ,國立故宮博物院 ⋈ 清代檔案檢索系統,(2025/08/24瀏覽)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/4665891nnp-Mr6#7eu
関連の研究や中文訳もあるんだけど、私も満洲語翻訳の練習を兼ねて訳してみることにする。
訳し次第こちらに掲載する。
このように、モンゴル、中央アジア、チベットのような北方、西方だけではなく、台湾のような南方の事情についても満洲語文書でのやりとりが行われていたのは面白い。
主な参考文献
「君臣對話:硃批奏摺展」展品譯介(三)——張起玉譯 閩浙總督覺羅滿保滿文奏摺(國立故宮博物院) 閩浙總督覺羅滿保滿文奏摺 奏進臺灣產番檨及福建武彝山芽茶等物件 康熙五十八年(一七一九)四月二十九日(PDF)
https://www.npm.gov.tw/NewChineseArtDownload.ashx?bid=1437
蔡承豪「臺灣獵狗進京去─從康熙朝覺羅滿保的奏摺談起」『故宮文物月刊』419期(2018.2)、pp.16-25。
https://theme.npm.edu.tw/Academic/Book-Content.aspx?a=2599&eid=0&bid=4093&listid=2598&type=13&l=1
杉山清彦「清初八旗における最有力軍団――太祖ヌルハチから摂政王ドルゴンへ」『内陸アジア史研究』16、2001年、pp.13-37
細谷良夫「八旗覚羅佐領考」『星博士退官記念中国史論集』星博士退官記念中国史論集記念事業会、1978年、pp.352-355