マンゴーとマンボー 台湾と清朝の満洲(マンジュ)人官僚 その2 マンゴーと台湾原住民についての上奏文の和訳
この間取り上げた、台湾のマンゴーを康熙帝に献じることが記されている満洲語の奏摺(私信形式の上奏文)の一つを満洲語の練習のため翻訳してみた。
マンゴーとマンボー 台湾と清朝の満洲(マンジュ)人官僚
拙い訳だがこちらに掲載する。
マンゴーを送ったのは閩浙総督(福建・浙江両省の行政・軍事を担当)の満洲(マンジュ)人の旗人官僚ギョロイ・マンボー gioroi mamboo(覚羅満保)(康熙十二年(1673年)~雍正三年(1725年))で、当時の台湾および台湾原住民に対する政策に深く関与している人物らしい(当時の台湾は福建省が管轄)。
檔案原文はこちらのリンク先を参照。
《宮中檔滿文奏摺-康熙朝》,覺羅滿保 奏,〈奏進臺灣番子土產芒果等物摺〉,康熙58年03月28日,故宮156215 號,頁 1 ,國立故宮博物院 ⋈ 清代檔案檢索系統,(2025/09/13瀏覽)
https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/4665841CNYXXRB#43F
中国語訳は以下の論文に掲載されている。
蔡偉傑「殖民檔案與帝國形構:論清朝滿文奏摺中對臺灣熟番的表述」『臺灣史研究』第十五卷第三期,中央研究院臺灣史研究所、民國九十七年(2008年)九月、pp.25-55(PDF)
https://www.ith.sinica.edu.tw/quarterly_download.php?name=fulltext_15_3_2.pdf&filename=125930837422.pdf
以下拙訳(逐語訳・意訳)を掲載。
台湾原住民について満洲語で記録されている点、そして康熙帝の硃批(朱筆によるコメント)がなかなか興味深い。
凡例
原文の満洲語はメーレンドルフ式ローマ字によりローマ字化した。
*は擡頭、**は二重擡頭を示す。
/は改行、//は檔案の改頁を示す。
句読点は単点は「,」、二重点は「,,」で示す。
皇帝の硃批は[硃批:abcdef]で示した。
( )内は訳者による補足。人名・地名などの比定は前掲論文を参照した。
意訳では読みやすさを考慮して、内容の区切りごとに適宜改行を加えた。
逐語訳
*wesimburengge1//2
奏すること
fugiyan jegiyang ni dzungdu aha gioroi manboo i gingguleme/
福建浙江の総督(1)漢文では一般に「閩浙総督」。奴才(2)aha 奴才は清朝の満洲(マンジュ)人・旗人官僚、漢人の上級武官などが使用する一人称で、皇帝個人・皇帝一家の従僕というニュアンスがあり、皇帝との距離の近さを示す言葉である。詳しくは、祁美琴「清代君臣語境下“奴才”称謂的使用及其意義」(『清史研究』2011年第4期、2011年)などを参照。ギョロイ=マンボー(3)ギョロイ・マンボー gioroi mamboo(覚羅満保)(康熙十二年(1673年)~雍正三年(1725年))。『清史稿』列伝巻二百八十四などに伝あり。が謹み
*wesimburengge,tai wan i fandz,fan suwan moo,fan mo ni ilga i jergi hacin be/
奏すること、台湾の番子(4)fandz 番子、中国の周辺異民族を指す言葉で、ここでは台湾原住民を指す。、番檨木(5)fan suwan moo 番檨木 マンゴー、番茉莉(6)fan mo ni 番茉莉花(7)原文では「ilga 花」。満洲語の一般的な綴りでは「ilha 花」などの品種を
gingguleme/
謹み
jafara jalin,duleke aniya fe mada fandz be tai wan de benere de,aha mini/
取るため。去年の元のマダ番子(8)「mada マダ」は平埔族の言葉で「少年」を指す。詳しくは前掲論文注34を参照。「fandz 番子」はここでは台湾原住民、特に康熙五十六年(1717年)に康熙帝のもとに派遣した台湾原住民(現在の平埔族)を指している。「元の fe」は康熙五十六年に派遣した原住民たちを指すか。を台湾に送るとき、奴才私の
fejergi ciyandzung li yan be unggihe bihe,te amasi isinjifi,sonjofi gajiha2//3
下の千総li yan(9)li yan 漢字不明。を遣わした。今、後に到着して、選んで連れてきた
fandz be cendeme tuwaci,bang ya i jergi duin fandz sujure hūdun,adame/
番子を試し見れば、bang ya(10)bang ya バン・ヤ 原住民の個人名か。などの四(人の)番子は走るのが速く、巻き狩りすることが
bahanambi,šan amba fandz i dorgide,juwe fandz beyede ilga sabsihabi,/
できる。耳が大きな番子のうち、二(人の)番子は模様を入れ墨している。
juwe fandz uculeme oforo i fulgiyeme bahanambi,fe mada fandz i dorgi ša/
二(人の)番子は歌い鼻で吹くことができる(11)oforo i fulgiyeme bahanambi 「鼻で吹くことができる」。台湾原住民の鼻笛(鼻で吹く笛)を指すか。。元のマダ番子のうちša
lai cihanggai jiki seme ofi,tuttu uyun fandz be suwalyame yooni ciyandzung/
lai(12)ša lai シャ・ライ 原住民の個人名か。は望んで来たいというので、そこで九(人の)番子を併せすべて千総
li yan de afabufi,gingguleme3//4
li yanに渡して、謹み
**enduringge ejen de tuwabume benebuhe jai tai wan ci tucire fan suwan moo,fan/
聖主(13)enduringge ejen 聖主、康熙帝を指す。に見せに送らせならびに台湾から番檨木、番
mo ni ilga,cuse moo,ya jiyoo jergi udu hacin be gingguleme nikan bithei/
茉莉花、竹、牙蕉など数種を謹み漢文の
dandz arafi inu ciyandzung li yan de afabufi,jaka be suwaliyame gingguleme/
檔子を作ってまた千総li yanに渡して、物を送り謹み
**enduringge ejen de/
聖主に
tuwabume wesimbu seme inu afabuha,fan suwan tubihe juwari ten i forgon de4//5
見せに奏せよとまた引き渡した。番檨果夏至の時節に
teni urembi,ureme jai
ようやく熟す。熟しまた
**enduringge ejen de tuwabume benebuki,erei jalin gingguleme wesimbuhe,
聖主に見せに送りたい。このために謹み奏した。
[硃批:saha,, ere jergi jaka gemu baitakū bime,neneme/
[硃批:わかった、これらの物はみな無用であり、先に
bahangga be bi ujifi ambula fusefi,ging hecen de 5//6
得た物を私が育て大いに繁殖して、京城で
teisu teisu ujihabi,jai ume benjire,mini/
それぞれ育っている。次は送るな。私が
tuwaki sere jaka oci jai jasiki,,]/
見たいという物であればまた届けてくれ
elhe taifin i susai jakūci aniya ilan biyai orin jakūn,
康熙五十八年三月二十八(日)
意訳
下の通り奏する。
閩浙総督奴才ギョロイ=マンボーが謹み奏すること。台湾の番子(中国の周辺異民族を指す言葉で、ここでは台湾原住民を指す)、マンゴーの木(番檨木)、番茉莉の花などの品種を謹んで取るためである。
去年の元のマダ番子を台湾に送るとき、奴才の属下の千総であるリ・ヤン(漢字不明)を遣わしたのであった。
今、後から到着して、選んで連れてきた番子を試し見れば、バン・ヤ(人名か)などの四人の番子は走るのが速く、巻き狩りすることができる。
耳が大きな番子のうち、二人の番子は模様を入れ墨している。二人の番子は歌い、鼻で吹くことができる(台湾原住民の鼻笛と思われる)。
元のマダ番子のうちシャ・ライ(人名か)が来たがっている。
リ・ヤンに引き渡して、謹んで聖主に見せるために送らせ、ならびに台湾からマンゴーの木、番茉莉の花、竹、牙蕉(バナナか)など数種を謹んで、漢文の檔子(文書)を作ってまた千総リ・ヤンに渡して、物を送り謹んで聖なる主(康熙帝を指す)に見せに奏せよとまた引き渡した。
マンゴーの果実は夏至の季節にようやく熟す。熟したら次に聖なる主に見せるため送りたい。このために謹んで奏した。
康熙五十八年三月二十八日
[硃批:わかった、これらの物はみな無用であり、先に得た物(マンゴー)は私が育て大いに繁殖して、京城でそれぞれ育っている。次は送るな。私が見たいという物であれば次に届けてくれ]
主な参考文献
「君臣對話:硃批奏摺展」展品譯介(三)——張起玉譯 閩浙總督覺羅滿保滿文奏摺(國立故宮博物院) 閩浙總督覺羅滿保滿文奏摺 奏進臺灣產番檨及福建武彝山芽茶等物件 康熙五十八年(一七一九)四月二十九日(PDF)
https://www.npm.gov.tw/NewChineseArtDownload.ashx?bid=1437
蔡承豪「臺灣獵狗進京去─從康熙朝覺羅滿保的奏摺談起」『故宮文物月刊』419期(2018.2)、pp.16-25。
https://theme.npm.edu.tw/Academic/Book-Content.aspx?a=2599&eid=0&bid=4093&listid=2598&type=13&l=1
蔡偉傑「殖民檔案與帝國形構:論清朝滿文奏摺中對臺灣熟番的表述」『臺灣史研究』第十五卷第三期,中央研究院臺灣史研究所、民國九十七年(2008年)九月、pp.25-55(PDF)
https://www.ith.sinica.edu.tw/quarterly_download.php?name=fulltext_15_3_2.pdf&filename=125930837422.pdf
祁美琴「清代君臣語境下“奴才”称謂的使用及其意義」(『清史研究』2011年第4期、2011年)
杉山清彦「清初八旗における最有力軍団――太祖ヌルハチから摂政王ドルゴンへ」『内陸アジア史研究』16、2001年、pp.13-37
細谷良夫「八旗覚羅佐領考」『星博士退官記念中国史論集』星博士退官記念中国史論集記念事業会、1978年、pp.352-355
注
戻る1 | 漢文では一般に「閩浙総督」。 |
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戻る2 | aha 奴才は清朝の満洲(マンジュ)人・旗人官僚、漢人の上級武官などが使用する一人称で、皇帝個人・皇帝一家の従僕というニュアンスがあり、皇帝との距離の近さを示す言葉である。詳しくは、祁美琴「清代君臣語境下“奴才”称謂的使用及其意義」(『清史研究』2011年第4期、2011年)などを参照。 |
戻る3 | ギョロイ・マンボー gioroi mamboo(覚羅満保)(康熙十二年(1673年)~雍正三年(1725年))。『清史稿』列伝巻二百八十四などに伝あり。 |
戻る4 | fandz 番子、中国の周辺異民族を指す言葉で、ここでは台湾原住民を指す。 |
戻る5 | fan suwan moo 番檨木 マンゴー |
戻る6 | fan mo ni 番茉莉 |
戻る7 | 原文では「ilga 花」。満洲語の一般的な綴りでは「ilha 花」 |
戻る8 | 「mada マダ」は平埔族の言葉で「少年」を指す。詳しくは前掲論文注34を参照。「fandz 番子」はここでは台湾原住民、特に康熙五十六年(1717年)に康熙帝のもとに派遣した台湾原住民(現在の平埔族)を指している。「元の fe」は康熙五十六年に派遣した原住民たちを指すか。 |
戻る9 | li yan 漢字不明。 |
戻る10 | bang ya バン・ヤ 原住民の個人名か。 |
戻る11 | oforo i fulgiyeme bahanambi 「鼻で吹くことができる」。台湾原住民の鼻笛(鼻で吹く笛)を指すか。 |
戻る12 | ša lai シャ・ライ 原住民の個人名か。 |
戻る13 | enduringge ejen 聖主、康熙帝を指す。 |