関羽がつなげる「われわれ」意識、そして大帝国――太田出『関羽と霊異伝説――清朝期のユーラシア世界と帝国版図』
太田出『関羽と霊異伝説――清朝期のユーラシア世界と帝国版図』名古屋大学出版会、2019年9月
『三国志』の英雄・関羽は、周知のように中華圏で神として広く信仰されている。
そして、関羽の「霊異伝説」、すなわち神となった関羽がこの世に出現し、さまざまな霊異――奇跡――を顕すという伝説が数多く語り継がれてきた。
本書では、こうした関羽の霊異伝説を多様な史料から収集し、分析を加えることにより、関羽信仰と国家による統治との密接不可分の関係を示すとともに、関羽信仰と清朝期のユーラシア世界への帝国拡大における役割を「われわれ」意識(we-feeling)を軸に読み解いていく。
まず、序章で、現代の中華民国(台湾)での国家と関羽信仰の深い関係から説き起こし、そこから国家の領域統合と関羽信仰という問題意識を述べていくところが面白い。
著者は清朝と関羽信仰の関係につき、張羽新の研究に注目している。著者のまとめによるとその結論は次の通り。
- 清朝は入関前から『三国志演義』を政治・軍事の教科書として使用。入関後の関羽崇拝もその影響。
- 清朝は軍魂・戦神として関羽を奉じ、その威霊・加護による勝利を期待。
- 清朝は関羽の忠義を政治的に利用し、政権・秩序の安定を企図した。
(張羽新「清朝為什麼崇奉関羽?」『世界宗教研究』1992年第1期、1992年)
著者はこの結論を大枠では認めて参考にしつつ、実証面、具体面での問題設定、再考を試みる。
また、論の前提として、清朝の統治構造、空間認識についての濱下武志、茂木敏夫、マーク・マンコール、片岡一忠、石橋崇雄、石濱裕美子、平野聡、濱田正美の研究をコンパクトに整理している。
第一章「唐朝から明朝における関羽の神格化」では、『三国志演義』が関羽信仰・神格化に及ぼした影響、唐朝に始まる関羽の神格化を整理していく。
著者は、まず江南デルタの「土神(ある地域でその地域特有の霊異伝説を有し、したがって主にその土地で信仰される神)」を研究した濱島敦俊の業績を取り上げる。
濱島敦俊は神々の創出過程につき、
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- 生前の義行あるいは優れた資質(霊力をも含めて、常人以上の資質に支えられる)
- 死後の霊異(不可視的に陰力で求めに応じて奇跡を施し、可視的にかたちをもって姿を現す)
- 天の代理者たる皇帝の認証(廟額・封爵をさす。土神の場合、前王朝のものを偽造、当代王朝のものは皆無である。関聖帝君・観音菩薩・城隍神など全国神の場合には当代王朝の封爵・賜号あり)
の3点に整理し、これら一~三を内容とする霊異伝説が「巫師」=憑依型シャーマンによって偽造されたことを解明している。
(濱島敦俊「近世江南李王考」(梅原郁『中国近世の法制と社会』京都大学人文科学研究所、1993、p526)、同『総管信仰――近世江南農村社会と民間信仰』(研文出版、2001、p89~96))
そして、2.死後の霊異については、かつて現世に在った「人」で他人のために義行を積んだ人間は、無数に存在するが、その全てが死後に「神」となるわけでなく、圧倒的多数は無数の「鬼」となっていく。「鬼」から「神」を聖別するのは、死後にその人間が顕す霊異である。つまりは、死後の奇跡を示すか否かによって決定されるとし、霊異の有無、ひいては霊異伝説の語られ方に注目すべきであることを強調している。
(濱島敦俊『総管信仰――近世江南農村社会と民間信仰』(研文出版、2001、p91)
以下本書で、著者はこの所説1~3を援用し、関羽の神格化と霊異伝説のナラティヴ(語り)を分析していく。
次に、井上以智為らの先行研究に基づき、唐朝に始まる関羽神格化、宋朝での国家祭祀化、大元ウルスのケシクでの関羽信仰の事例、倭寇、文禄・慶長の役、反乱鎮圧などの軍事行動を契機とした華北から周縁部への伝播につき紹介、整理されている。赤い顔など今我々が『三国志演義』で知っている関羽の姿として霊異を顕すのは明代以降らしい。
明代に、関羽信仰がまず軍隊内の武官・兵士に普及し、さらに軍隊によって華北から周辺地域へと持ち運ばれていったという推定が興味深い。民間への信仰の浸透、霊異伝説中の関羽の霊験の多様化も指摘。 やはり『三国志演義』の影響力は絶大であったらしい。
第二章「清朝と関聖帝君の「顕聖」――霊異伝説の創出」では「清朝はなぜ関羽を崇拝したか」という問題設定に対し、清朝が創出した霊異伝説の分析から解答を試みる。
著者は関羽に賜与された封号の歴史を一覧表(同書p41表1-1)にしているが、特に清代後期にはどんどん神格化が進み封号が増えていき、最終的には清の光緒五年(1879)の「忠義神武霊佑仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」となっている。
著者は、前章で取り上げた濱島敦俊の所説1~3を援用し、清朝皇帝ないし文武官僚が関羽に仮託した奇跡を繰り返し創出し、皇帝の認証たる封号が次々と賜与されていく過程を明らかにする。換言すれば、清朝皇帝や文武官僚自らがあたかも巫師と同じような役割を果たしていた。
そして、著者は、清朝の天理教徒、太平天国との戦いなどで関羽が顕したとされた「奇跡」のナラティヴを分析(p76-77、81-82)。単に関羽の忠義・武勇だけでなく、破邪・雨乞い・晴れ乞い、おみくじによる託宣など民間の下からの信仰に基づく具体的な霊力が期待され、そうした回路を通すことで清朝皇帝から一般民衆までの心性に踏み込んだ、関聖帝君(神となった関羽)の加護のもとにあるという「われわれ」意識が形成されたと指摘。
この「霊異伝説の創出」と「われわれ」意識の共有は、第五章でも引き続き論じられる。
第三章「関帝廟という装置」では、霊異伝説を伝える媒体としての関帝廟に着目している。清代のさまざまな関羽霊異伝説だけでなく、なんと著者自身が採集した文革時代を舞台とする関羽の霊異伝説まで紹介されている。
著者は、関帝廟は単なる祭祀・宗教施設ではなく、関帝聖君が顕聖する(奇跡を起こす)聖なる空間に変質させる機能を持ち、かつ王朝の当地・支配を象徴する政治性を色濃く帯びた施設であったとする。
文革時代の関帝聖君の霊異伝説が面白いので以下かいつまんで紹介(同書p105-106)。
福建省龍海市の赤嶺関帝廟での老人の話によると、 文革が発動されるとまもなく紅衛兵がやってきて住民たちの猛反対にもかかわらず封建迷信であるとして関帝廟を完全に壊してしまった。ところがその夜の出来事だった。紅衛兵を率いてきた一人の共産党幹部が廟の傍らの倉庫で寝ていると関羽が夢に顕れて「なぜ廟を拆毀したか!」と幹部を怒鳴りつけた。幹部の驚き慌てぶりは並大抵ではなく、翌日から病気にかかって逃げるようにして出ていった。その倉庫こそがいまの関帝廟である、と。
関羽は現代中国でも顕聖するのである。
本書ではこうした興味深い霊異伝説を多様な史料からたくさん集めていて、関羽信仰の根強さ、奥深さと広がりの大きさを明らかにしている。
第四章「「白蓮」の記憶――明清時代江南デルタの謡言と恐怖」では、明清時代の江南デルタの諸都市・農村に流布していた「白蓮の術」に関する恐怖の謡言(デマ)を取り上げる。
邪教の「妖人」が辮髪を切るという内容が興味深い。
そして王朝国家側が「白蓮の術」に対抗しうる霊力を有した関羽の霊異伝説を創出。民間の英雄神かつ王朝国家側に立つ守護神としての関羽に民間の宗教反乱をねじ伏せさせる――「正」が「邪」に打ち勝つことを示す――ことで、支配の正統性を誇示したとする。
第五章「清朝のユーラシア世界統合と関聖帝君」では、漢地、新疆、チベット、台湾における関羽の霊異伝説を分析。そして、第二章の内容を踏まえて、関羽の霊異伝説で定型化されたナラティヴを整理している(171-172、178-180)。
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- 顕聖の場面は中国内地の千年王国的宗教運動(天理教の乱、太平天国の乱など)が多いが新疆など周縁部もあり。
- 関聖帝君の最も重要な霊力は「破邪」であり、敵は「白蓮教」、「妖法」など「邪(教)」の性格を有する。
- 加護の対象は満洲人皇帝ないし官僚、漢民族。暗闇、砂塵などのなか、光が発生する事が多く、これは「闇の世界」(カオス)から「光の世界」への復帰を象徴。敵対勢力の脅威(非常事態・危機状態=カオス)→関聖帝君の顕聖→政府軍の勝利、それに続く秩序・規範(=ノモス)の回復、現体制の維持という流れ。
- 清朝は関聖帝君の加護を祈願してはいない、にもかかわらず関聖帝君は顕聖する。これは清朝の正統性を高める効果があった。
- 清の政府軍のみならず敵・反乱軍にも関聖帝君の奇跡を目撃させることで信憑性を補強
- 霊異伝説には降雨、晴れ乞い、託宣など多くの民間信仰が取り込まれている。
その上で、著者は、これら霊異伝説が漢民族ないしは満洲人を対象とする「内向き」に創出・宣伝されていたことを指摘。漢民族・満洲人にとって馴染み深い空間ではなかったからこそ、関聖帝君は繰り返し顕聖(奇跡を発動)させられたと推測。
これにより政府軍(主に緑営)の文武官僚・兵士に対し、関聖帝君の加護の下にある限り「やつら」に敗れることはないとする「われわれ意識」を共有・確認させる。さらに一般民衆をも含んだ漢民族全体に対して、これら諸地域がすでに関聖帝君の加護のもとにある「聖なる空間・世界」であることを示す目的があったと著者は考える。
清朝軍のあるところ関羽は出現し、奇跡を示す。こうした伝説が次々と創出され、宣伝されていく。
第六章「清朝の版図・王権と関羽信仰――乾隆帝の十全武功と関聖帝君の顕聖」では、まず乾隆帝の十全武功とそれにより獲得された「版図」への認識を整理している。次に、新疆各地における関帝廟の設立と関羽の霊異伝説について検討を加え、さらにチベット・台湾・両金川平定と関羽の関わりを検討する。
著者の主張は以下のとおり。
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- 十全武功は清朝皇帝の文徳・武功はもちろん、それを加護する関聖帝君の霊佑により勝利を得たと認識されていた。
- 「版図」への編入後当該地域には関帝廟が直ちに建設。版図編入の刻印としての意味か。
- その後も関聖帝君は顕聖。関聖帝君の霊力は清朝の版図全体を覆う。
- 関聖帝君の霊威を認識・共有できたのは史料を見る限り満洲人と漢人。満洲人にとって関羽は外来の神であり、特に清朝支配層にとっては「戦神」、「護国」の神としての側面が強かったのではないか。チベット人、モンゴル人、イスラーム教徒にとっては一部を除いて共有されなかったのではないか。著者は乾隆年間のチベット、モンゴルにおけるチベット仏教と関羽信仰の習合の例も取り上げているが、あくまで個別的な一部の例として捉え、チベット人、イスラーム教徒の関羽への受け止め、認識については結論を留保し、別に検討すべき課題としている。
- 清朝の「版図」と関帝廟の関わり。関帝廟は「版図」編入の象徴。漢地はもちろん、軍事遠征の過程で関聖帝君は軍隊とともに「版図」の最前線に運ばれ、新たに獲得した「版図」に祭られることでそこが認識可能な「わかる」世界へと転換。
- 関聖帝君の加護する世界、認識可能となった世界はほぼ「版図」全体を覆うように広がる。少なくとも満洲人・漢人にとっては関聖帝君に護持された「われわれ」の領域・空間であった。
- 熱河の関帝廟。熱河という場所、そして皇帝と同様の黄色い瓦。関聖帝君こそが皇帝に匹敵する地位を与えられた清朝最高の武神であり、それを「見せる」対象は満洲人・漢人に限らずモンゴル・チベット・トルコ系ムスリムなども含まれていた。
- 関羽信仰を紐帯とする「われわれ」意識を利用した「中外一統」。なぜこれほどまでに「版図」を主張したか。著者は、ロシアをにらんだものではなかったかと推測。
終章「国家と宗教」では、まず本書で明らかにされた内容を整理し、その意義を述べている。次に、関帝廟との比較の意味で、近代日本における海外神社を想起している。
それから、「近世東アジアにおける王権と宗教」として、日本の天皇、徳川将軍、朝鮮の事例を先行研究に基づき提示し、清朝との比較を行っている。近世東アジアの王権が宗教と分かちがたく結びつき、多様な宗教からの権威の調達を図っていたとしている。
最後に「近代国家と宗教」として、民国三年(1914)序の『関帝史略演詞』(軍人向け講演資料か)を元に、中華民国と関羽信仰について見通しを含めて述べる。関羽信仰のさまざまな要素がきれいに払い落とされ、関羽の「忠義」のみが軍人そして近代国家に必要なものとしてクローズアップされたとする。
そして民間では現代もなお関羽の霊異伝説が創出されつづけ、国家もさまざまな形で関羽の加護を期待していることに触れる。一周回って冒頭の内容に戻る。
著者は本書を次のように締めくくる。
「こうした点を踏まえたとき、関羽信仰の研究は中国宗教史の一部分であるだけでなく、政治史の一部分でもあり、さらに一歩深めていえば国体思想史・精神史の一部分をもなすものであるといえるであろう。」
…………………………
このように、著者は、関羽がさまざまな奇跡を起こす霊異伝説を収集し、分析を加えることで、清朝が関羽信仰を紐帯とする「われわれ」意識を利用した統合を図っていたことを明らかにする。
清朝軍のあるところ関羽は出現し、奇跡を示す。関聖帝君の加護を受ける「われわれ」は「やつら」(外敵・反乱軍)に敗れることはない、と。
こうした伝説が次々と創出され、宣伝されていく。
貴重な成果であり、力作であるといえる。
あえて疑問点を述べるとすれば、緑営兵士の事例に比べ、清朝期の満洲人(旗人)間の関羽信仰についてあまり深堀りできていない点か。
著者は第二章で満洲旗人・蒙古旗人の関羽信仰の浸透につき、「北京以外の各地に駐屯した駐防八旗のなかには関帝廟をもたない場合すらあり、地方における祭祀の実施状況や、一般の満洲人・蒙古人八旗兵への関羽信仰の浸透には疑問が残らないわけではない」とし、十分な史料的裏付けを欠くとしながらも、「八旗兵による関羽に対する祭祀には上からの“押しつけ”的な色彩が少なからず感じられ、一般兵士レヴェルの下からの熱心な信仰を汲み取ったものとは考えにくいように思われる。」としている(p71)。
このあたりについては、単純に片付けるのではなく、やはり史料の裏付けが欲しいところである。また、本書の注を見る限りでは、注を見る限り、満文史料は使用していないようである。
また、「駐防八旗のなかには関帝廟をもたない場合すらあり」とあるが、駐防八旗の満城(駐屯地)にはほぼ必ずと言っていいほど関帝廟が設置されており、仮にあったとしても極少数の例ではないか。
(著者は当個所につき、「たとえば、光緒『駐粤八旗志』巻二~四、建置志には、関帝廟の存在を確認できない。」(第二章注(9)、p258)としているが、光緒『駐粤八旗志』巻二十四、雑記によると満城内に1ヶ所、北郊に2ヶ所の駐防八旗に関連する関帝廟が設置されている)。
これらは著者が緑営の研究から出発したことによるものだろう。その経緯は「あとがき」に記されている。
ただこうした点は本書の価値をいささかも減じるものではない。満洲人自身の関羽信仰は今後他の研究者によりさらに深堀りされていくべきだろうし、その過程では著者が示した視点が有効となるのではないか。
本書は労作にして良書。ぜひ一読を推奨したい。
…………………………
参考文献
『駐粤八旗志』(近代中国史料叢刊86、文海出版社、1999)
張羽新「清朝為什麼崇奉関羽?」(『世界宗教研究』1992年第1期、1992年)
濱島敦俊「近世江南李王考」(梅原郁『中国近世の法制と社会』京都大学人文科学研究所、1993)
濱島敦俊『総管信仰――近世江南農村社会と民間信仰』(研文出版、2001)
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拙著を丁寧にお読みいただき、また過分なお言葉を賜り、感謝を申し上げます。ご指摘いただいた点なども今後反映できるよう、がんばっていきたいと思います。貴殿も生活がなかなか大変なようにお見受けいたしますが、お互いに前を向いて生きていきましょう。どこかでお会いできますように。本当にありがとうございました。
コメントならびに暖かいお言葉をいただき心より感謝いたします。僭越な感想で大変失礼いたしました。今後も清朝史、中央ユーラシア史を学び続けていきたいと思います。私も前を向いて生きていきます。どこかでお会いできれば幸いです。本当にありがとうございました。先生のますますのご活躍をお祈り申し上げます。