ユーラシアのなかの中国史――古松崇志『草原の制覇――大モンゴルまで』シリーズ 中国の歴史3
古松崇志『草原の制覇――大モンゴルまで』シリーズ 中国の歴史3、岩波新書、岩波書店、2020年3月
「中央ユーラシア」・「ユーラシア東方」という枠組を用い、ユーラシア史を貫く基調である狩猟遊牧民と定住農耕民の抗争・共生関係を軸に描き出す多元的な中国史。「五胡十六国」からモンゴル(大元ウルス)に至る多様な狩猟遊牧勢力を扱う。
本書は、はじめに・序章・第一章~第五章・おわりに・あとがきで構成されている。
「はじめに」では、本書のねらいを「ひろくユーラシア史の視点から中国の歴史をとらえなおすことにある」(p.v)とし、その鍵を握る存在として遊牧民を挙げる。
序章「ユーラシア東方史と遊牧王朝」では、本書の叙述の基本的な枠組みである「中央ユーラシア史」・「ユーラシア東方史」が読者に提示される。
そもそも「中央ユーラシア」とは、1960年代にデニス=サイナーという研究者により提唱された空間概念で、東は大興安嶺山脈東麓一帯、モンゴル高原、ジュンガル盆地、カザフ草原、南ロシア草原、西は東ヨーロッパのハンガリー平原にまで至る北の草原(ステップ)地帯と南の砂漠・高原地帯をいう。そこでは騎馬遊牧民と定住農耕民が活動し、草原での遊牧とオアシスでの定住農耕が行われた。
著者は、この中央ユーラシアという空間概念について、「その要諦は、かつての中国やヨーロッパなど定住民が残した伝統的な歴史叙述でも、西洋で成立した近代歴史学の歴史叙述でも、周辺視・野蛮視されがちだった騎馬遊牧民について、その歴史上に果たした役割を見なおすことにあった。すなわち、中央ユーラシアの草原地帯の騎馬遊牧民が中核となり、卓越した騎馬軍事力を基礎に歴史上何度も遊牧王朝を樹立し、版図を大きく広げて周辺の定住農耕民を包摂し、ユーラシア各地の歴史を動かしてきたことを重視するのである。」(p.9)と紹介している。
さらに、「また、すでに述べたように、中央ユーラシアには、草原で暮らす騎馬遊牧民のほかに、農耕や商工業を生業とするオアシスに暮らす定住民がひろく共通してみられる。それゆえ、中央ユーラシアの歴史は、草原の遊牧民とオアシスの定住民という対蹠的な両者の社会が共生関係を結ぶことを基調として展開してきた。人びとの種族・言語・宗教なども多様で広大な中央ユーラシアを、一つの歴史世界として捉えることが可能となる理由はそこにある。」(p.9-10)としている。
その上で著者は、華北は中央ユーラシアの東南辺縁にあたり、中央ユーラシアの乾燥地帯と東アジアの湿潤地帯の間にまたがり、遊牧民の生活に適した草原と農耕民の生活に適した可耕地とが入り組んで存在する「農耕・遊牧境界地帯」であるとし、遊牧と農耕が出会うユーラシア東方史、華北と中央ユーラシアのつながりを指摘する。
そして、「ユーラシア東方史」という空間概念を提唱する。その範囲はおおよそパミール高原以東を指し、中国本土、朝鮮半島、マンチュリア、東シベリア、モンゴリア、河西回廊、東トルキスタン、チベット、雲南、インドシナ半島までの広域を包含するとしている。著者によれば、これは中央ユーラシア史をふまえつつ、それを東アジア史や中国史と接合する概念であり、「ユーラシア東方史とは、中央ユーラシアと東アジア史(または中国史)のどちらかの動向を中心とみなすことなく、双方をひろやかにフラットに視野に入れることをめざす歴史研究のための枠組である。」(p14)とする。
本書では、この枠組みに基づき、記述が進められていく。
最初に触れているのは「中国王朝と馬」というテーマだ。
著者の考えるユーラシア東方史の基本構図は、モンゴル高原やマンチュリア平原の狩猟遊牧と中国本土(華北)の農耕という異なる生業をそれぞれ基盤にした、遊牧王朝と中国王朝(中原王朝)という二つの異なる類型の王朝が隣接するかたちで興亡したというものだ。
著者は、中国王朝も馬の生産、馬政に力を入れてきたことに言及し、農耕・遊牧境界地帯は華北の中国王朝にとってアクセスしやすい馬の産地として重要だったとしている。
次に、著者は、騎馬遊牧の誕生、スキタイ・匈奴に見られる遊牧王朝の原型について概説する。
匈奴は、平時には遊牧の移動生活を送り、有事の際には武装して騎馬軍団に変貌した。軍事・政治・社会組織は、十・百・千・万の十進法体系にもとづく。単于が中央にいて、王族を左右(東西)に配する左右両翼体制を敷く。
これらはいずれも後の鮮卑・突厥・モンゴルなどの遊牧王朝でも共通して見られるもので、匈奴の段階で、早くも中央ユーラシア遊牧王朝の統治体制の基本的なしくみができあがった。
第三に、ユーラシア東方史の南北構造である。
著者は、北方の遊牧王朝と中国王朝の南北対峙がユーラシア東方の基調となっていくとする。
だが、その遊牧系集団に出自を持つ軍事力を中核に、漢代以来の中国王朝の統治体制を適宜に取捨選択して取り込みつつ、中国本土の一部あるいは全体の支配者となるケースが何度も見られ、中国本土の歴史は、狩猟民・遊牧民の軍事力を中核とする王朝の支配と多様な人間集団の混交がきわめて頻繁にみられるものだったことも指摘している。これは本書に登場する王朝・勢力に広く見られる特徴だ。
また、シルクロードについて、ユーラシア東西方向だけでなく、北の草原地帯と南のオアシス地帯または農耕地帯とのあいだを結ぶ南北ルートも含めてとらえなおすという近年の動向についても触れている。
第一章「拓跋(タブガチ)とテュルク」では、五胡十六国時代を経て、鮮卑拓跋部の建てた北魏による華北統一、北朝の諸王朝から隋唐へと続く王朝、突厥・ウイグルなどのテュルク系遊牧王朝、ソグド人の活動と安史の乱、チベット(吐蕃)の歴史が述べられている。
北魏については、近年の研究を反映し、北魏政権の中枢は遊牧王朝としての性格がこれまで考えられていた以上に色濃かったことが紹介されている。
北魏が君主の称号として「カガン」号も使用していたこと、平城に都を置いていた時代は遊牧民の風習を維持し季節移動していたこと、遊牧民の伝統に根ざした天を祀る儀礼など遊牧王朝としての性格を色濃く維持していたこと、のちのモンゴル帝国における君主の側近集団ケシクテンに非常に類似した「内朝官」という制度があったことが述べられている。「内朝官」はほとんどすべてが鮮卑系で占められ、内朝官のうち武官は皇帝の身辺護衛や身の回りの世話にあたる担当官が設けられ、彼らは皇帝の側近としてさまざまにな部署に派遣され、有事の際には戦闘に従事することもあったという。
また、征服した諸国・諸集団の部族を再編し、特定の場所に強制移住。旧来の支配者集団に、新たに征服されて移住させられた部族をくわえて「八部制」が敷かれた。北魏王族を中核とする部族集団は平城周辺を指す「代」地区に居住する「代人」というアイデンティティを共有し、代人集団というべき北魏の支配者集団が形成されていった。
「六鎮の乱」による北魏の分裂後、華北に建った北斉・北周・隋・唐はいずれも北魏の鮮卑拓跋部のもとに集った遊牧部族集団を淵源としており、近年では北魏から北斉・北周・隋・唐を一連の王朝国家ととらえて、「拓跋国家」と呼ぶ見解が提起されているという。8世紀前半に遊牧王朝の突厥第二可汗国で書かれた突厥碑文によれば、古代テュルク語で唐のことを拓跋が訛った「タブガチ」と呼んでおり、草原の遊牧民の間では唐朝は「拓跋」だと認識されていたという。
唐は突厥との戦いを経て勢力を拡大し、ユーラシア東方における覇権を実現するが、それを可能としたのは突厥遺民をはじめとするテュルク系遊牧民の強大な軍事力であったとする。
突厥、ウイグルなどテュルク系遊牧王朝における政治、文化についての記述も忘れていない。
突厥は遊牧民伝統の左右翼体制を形成し、突厥文字を用いて突厥碑文を作り、歴史上初めて遊牧民が自らの文字で記録を残したものとして、その意義を強調している。
ウイグルが中国との交易を背景に歴史上初めてモンゴル高原に本格的な都市を築いたことも特筆している。
ユーラシア東方におけるソグド人の活動と「ソグド系突厥」の動向、多様な集団が入り交じる華北の状況、ソグド人ネットワークに触れつつ、通婚・擬制的父子関係(仮父子関係)により結びついた多種族混成の強大な軍事集団である軍鎮の形成、そして安史の乱へとつながっていく。擬制的父子関係による結びつきは唐末五代の華北の沙陀系軍事勢力・王朝にも見られる。
チベットは安史の乱を契機に勢いを増し、一時は長安を占領している。
軍管区制による強大な軍事力、チベット文字による文書行政制度の高度な発達、駅伝制度などが紹介されている。
9世紀のユーラシア東方は唐、ウイグル、チベットの三国が鼎立する情勢となった。
やがてこの三国は崩壊し、9世紀後半のユーラシア東方は多極化の時代へと入っていく。
第二章「契丹と沙陀」では、契丹の建国からその歴史、政治・軍事制度、さらには華北の沙陀系王朝との関係が述べられている。
著者は、まず契丹の建国以降の歴史を概説し、次いで契丹は皇帝に直属する近衛軍団を組織し、遊牧民を部族制で支配する一方、都市を建設して定住民を吸収して唐の制度に範を取った州県制を敷いて支配したことを述べる。
契丹制と唐制の融合によって集権的な軍事組織や支配制度を確立するという志向により、従来の中央ユーラシアの遊牧王朝に比して一段強化された安定した支配体制を築くことに成功し、ユーラシア東方で200年以上繁栄することが可能となったとする。
次に、沙陀の勃興について。
唐の滅亡と前後して、華北の一大軍事勢力として台頭したのがテュルク系遊牧集団沙陀を中核とする軍事勢力であり、彼らは後唐以降の沙陀系王朝へとつながっていく。
ここで提示される沙陀系王朝と契丹との争いの歴史としての五代史という視点、さらには北宋もまた沙陀系の遊牧系軍団、軍事勢力を淵源としているという位置づけもうなずける。
本章では、遊牧民の世界と農耕民の世界の境界線に位置する華北で、さまざまな遊牧勢力と漢人が複雑に絡み合いつつ展開する歴史が描かれており、読み応えがある。
第三章「澶淵の盟と多国体制」では契丹と北宋の戦争から「澶淵の盟」に至る経過。さらには西夏も加わった「多国体制」の完成、契丹後期の歴史が述べられている。
北宋の太宗による北方遠征とその失敗について、本章では、手薄な守りを突く騎馬軍による電撃作戦、平原での正面からの野戦志向など、北宋軍の戦闘文化、戦術、戦法は李克用以来の沙陀軍団のそれを濃密に受け継いだものだったとした上で、だがそれゆえに騎射を得意とし、機動力に富んだ遊牧騎馬軍団を主力とする契丹軍に対しては、効力に限界があったと指摘されている。
澶淵の盟についても近年の研究を反映して、複数の王朝が対等に平和共存しあう多国体制として評価されている。また澶淵の盟は目新しいものではなく、それまでの先例を踏まえたものだったことにも触れている。澶淵の盟による契丹・北宋の交流についてもわかりやすく概説されている。
西夏の勃興と北宋の西北経略についてはかなり詳しく言及しており、青唐チベット(青唐王国)という一般にはよく知られていない国家についても紹介されている。
北宋の西北経略において、対青唐戦争の勝利が成功体験となり、徽宗が対契丹戦争に踏み切る遠因となったという指摘は興味深い。
第四章「金(女真)の覇権」では、女真人の勃興と金の成立、契丹と北宋の滅亡、カラ=キタイ(西遼)、金の変革、そしてモンゴル勃興前夜までの情勢が述べられている。
渤海、そして金成立以前の女真人社会の様相、金の社会・軍事制度、華北支配、内紛、対南宋関係、南宋との和議による多国体制の再現、海陵王による変革と南征、契丹人の反乱、世宗による女真文化復興政策、不安定な北方情勢と章宗による北方経略など、豊富なトピックにつき、最新の研究を反映しつつ要点をうまくつかんで記述しており、読み応えがある。
契丹の耶律大石が中央アジアで築いたカラ=キタイについてはあまり詳しくなく、今後の研究が待たれるということのようだ。
耶律大石については、契丹の皇族の一員とされるが、おそらく耶律阿保機の血はひいておらず、本来は皇帝になるような貴種ではないとしている。
中央アジアでも契丹の制度を受け継いでいたらしく、契丹文字の使用も続いていたようだとしている。
第五章「大モンゴルと中国」では、テムジン(チンギス=カン)の登場から大モンゴル国の建国と拡大、金・西夏の滅亡、クビライによる大元ウルスの建国、南宋の統合、ユーラシア東西の交流と中国、大元ウルスの内紛、「十四世紀の危機」と大元ウルス解体について述べられる。
個人的に参考になったのは経済・文化に関する記述で、二度の戦争にもかかわらず、日本との民間貿易による往来は非常にさかんだったこと、ユーラシア規模での文化の交流と融合、人の往来が盛んに行われたことである。
また、儒教がモンゴル支配下で大いに復興し、なかでも朱子学の優位が決定づけられたのもこの時代だったというのは面白い。
「おわりに」では、本書の内容を総括している。
契丹の革新性を強調し、駅伝制度(ジャムチ)の構築、文書行政の発達、草原における都市の建設、君主側近に仕える侍衛軍団(ケシクテン)の整備といったモンゴル帝国の重要な制度のルーツとして契丹を位置づけている点が注目される。
以上、本書では「中央ユーラシア」・「ユーラシア東方」という枠組を用い、ユーラシア史を貫くメインテーマである狩猟遊牧民と定住農耕民の抗争・共生関係を軸に多元的な中国史を描き出している。
本書は各狩猟遊牧民の王朝・勢力について、近年の研究成果を反映しつつ、その特色さらには歴史的意義をわかりやすくまとめている。
本書は新たなユーラシア東方史の概説書として非常に役立つ本となるだろう。良書。