溥儀の満洲語 その二

 この間、溥儀は満洲語がほとんどできなかったと書いたが、最近では異説も出ているらしい。


   代表的な溥儀研究者である王慶祥はその著『非常公民――溥儀軼史』で、溥儀とその満洲語教師であった伊克坦の交流について触れた箇所で、溥儀は伊克坦の教育により満洲語をある程度使いこなせるようになっていたとしている。 


 それによると、溥儀は満洲語を学び始めた頃は腕白盛りでやる気がなかったようだが、後には満洲語をよく学び、伊克坦に対し彼を賞賛する対聯を賜っている(王慶祥『非常公民――溥儀軼史』p.21~p.23)。溥儀の満洲語のレベルに直接関わる部分は以下の通り。



起初溥仪的满文成绩较差,随着年岁渐长也不断进步,逐渐不但能用满文说日常用语,而且还能写得不坏了。经过大约4年的学习,溥仪已能阅读《圣谕广训》,《满洲孝经》等满文书籍了,



初めの頃は溥儀の満文の成績はやや劣っていたが、年齢が高くなるに従って不断に進歩しており、満文で日常用語を話せるだけでなく、書く方もうまくこなせるようになった。約4年余りの学習を経て、溥儀は『聖諭広訓』、『満洲孝経』(引用者註:『満文孝経』か?)等の満文書籍を読めるようになっていた。


『非常公民――溥儀軼史』、p.23、管理人訳



 一般向けの本ということもあり本文中では原史料や根拠を明示していないが、これを見ると、溥儀は少なくとも日常レベルの満洲語は話せたということのようだ。


 では、溥儀が仮に満洲語が話せたとしたならば、なぜ自ら自伝で「何年もかけて学んだが、ひとつの言葉しか覚えられなかった」と書いたのだろうか。1950年代から60年代にかけては清朝の旧支配者である満洲族への厳しい視線があり、また漢族至上主義(大漢族主義)の横行により、少数民族文化が遅れた封建的文化とされていたことも関係しているのだろうか。


 溥儀は満洲語が話せたのか、話せたとしたならばなぜそれを隠したのか。ここではとりあえず結論を保留しておきたい。
 この問題はさらに深く掘り下げる必要がありそうだ。もう少しいろいろな文献を読んでみたい。


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参考文献


中国語
愛新覚羅溥儀『我的前半生――全本』群衆出版社、2007年
王慶祥『非常公民――溥儀軼史』中国国際広播出版社、2002年


日本語(著者名五十音順)
愛新覚羅溥儀著、小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳『わが半生』上・下、ちくま文庫、1992年

【追記】表示の不具合を修正しました(2019.5.3)

溥儀の満洲語 その二” に対して2件のコメントがあります。

  1. より:

    在之前读过的《摄政王载沣传》一书的最后一章中,记有建国后周恩来在与溥仪、载涛等人会见中提到新中国精通满文的人才,可惜载沣先生去世的太早了(1951年去世)。溥仪表示自己满文根本没学会(用汉字记日记的习惯保持了一生。)载涛(去世后葬八宝山公墓,周恩来指示按革命干部对待,因其对共和国马政事业做出贡献,另曾读到过民国张作霖曾与载涛赛马输掉的文章,可见其懂马之精深。)当时也表示自己幼学满文,但始终就没学会。在赵志忠的相关著述中曾读到,因为清后期满语虽有国语之名,但日益衰败(主要是日渐丧失交际的功用),而清朝上层反将满语作为贵族语言而神秘化,更增加了普通民众学习掌握的难度与隔阂。在另外读过的文章中还了解到,东方(包括日本先前无文字的民族)对于符号、文字这样的东西,具有敬畏感,所以想必满语丧失交流的舞台后,伴随汉语的巨大冲击,满人对汉文的掌握就更是直接而迅疾的罢。今我之习满语文,一为兴趣(甚为满文与日文相似处而奇异);二则文化传承,何年何月,满文依旧有用。君不见,故宫匾额上依旧挺拔的满汉双文么?(人民币上只有蒙文而已)

  2. 電羊齋 より:

    >Amin agu谢谢你的指教。ご教示感謝します。我已经买过《摄政王载沣传》,但由于工作很忙,还没看过,刚才看到你指出的内容。关于这个问题,我打算查阅更多的史料和文献,特别是清末皇族的传记和回忆录。>在赵志忠的相关著述中曾读到,因为清后期满语虽有国语之名,但日益衰败(主要是日渐丧失交际的功用),而清朝上层反将满语作为贵族语言而神秘化,更增加了普通民众学习掌握的难度与隔阂。原来如此,也有这样的因素,谢谢赐教。我学习满文的理由是兴趣(满文与日文相似处)和研究清朝历史的需要。

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