昭和が終わった日 そして二十年が過ぎた
昭和天皇崩御20年、両陛下・皇太子ご夫妻らが拝礼(2009年1月7日12時17分 読売新聞 電子版)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090107-OYT1T00371.htm
もうそんなに経ったんやなあ。感慨深いです。
1989年1月7日、当時中学三年生の私は、家のラジオで「崩御」のニュースを聞いてから登校。肌寒い曇りの日だった。
昭和天皇の容体が悪化し始めてからその時点でもう三か月以上経っていたので、ニュースを聞いてもそれほど大きな驚きはなかった。
学校に着くと、校舎正面のポールに日の丸が半旗で掲げられていたのを覚えている。うちの中学校は日教組が強かったから、普段は日章旗を掲げなかったのだが・・・・・・。
校庭でクラスのみんなとそわそわしながら朝礼を待っていた。当たり前だがみんな昭和生まれで、これからもずっと昭和が続いていくんだとなんとなくそう考えていた。天皇が亡くなり、元号が変わるというめったにない出来事に出会い、なんとなくみんなうわついているような感じだった。
朝礼で校長先生が、「今日天皇さんが亡くなり・・・・・・」と言っていた。いつもは長話をする先生もこの日は2~3分で話を打ち切り、朝礼終了。どことなく歯切れが悪く、素っ気ない印象だった。普段けっこう左がかったことを言っていた手前、話がしにくかったのだろうか。
ただ、こういう素っ気ない言葉が逆によかったのかもしれない。朝礼がおわると、みんな不思議と落ち着いた雰囲気に戻っていたから。
家に帰ってテレビをつけると昭和時代を振り返る番組や新元号「平成」の発表などが流れていた。あと、おもしろかったのは紙幣や硬貨に「昭和」と書かれていても有効だと、テレビで繰り返し放映していたことかな。
1月8日午前零時前、テレビに時計が大写しになり、カウントダウン。昭和の終わりを実感。
その後、激動の平成時代に。良くも悪くも、昭和とは全く異なった時代になった。
おれの人生も相当激動した。
高校三年間は、中国関連の本や世界史、さらにはミリタリー関係の本を濫読したり、なぜか科学クラブを立ち上げて、わけのわからん実験をやったりしていた。
大過なく高校を卒業した後は、某大学で中国史専攻の道を選び、一方で戦国時代の山城を研究するサークルに所属。しょっちゅう山に登っていた。
1994年、大学三回生のころ、初めて中国を一人旅。修学旅行や母の郷里への帰省を除き、日本国内ですら関西地区から出たことがない私が、初めての一人旅に選んだのが中国だった。あの頃の中国は今に比べて不便な点が多く、また悪い奴にもだまされたりしたが、親切な人々にも助けられ、無事帰国。特に東北地方(旧満洲)の人々は抜群に親切で、その後の私の人生を決定づけられたといっていいだろう。
くわしくはこちら(中国語です)
我和辽宁(为了不忘初衷)
http://honin.spaces.live.com/blog/cns!9DAA889CEE2D0AB0!2607.entry
1996年、2000年にも一人旅に行き、ますます中国(特に東北)が好きになった。
その後、バブル崩壊後の不景気、そしていわゆる「失われた10年」の中で家業が傾き、アルバイトに精出しながら大学院で清朝史と満洲語を勉強、いつも自分の境遇を逆恨みしながら図書館の書庫にこもって史料集めをしていた。
どうにかこうにか修士論文を提出した後力尽き、しばらくはフリーターや家業の手伝。
そうこうするうちに2000年から何とか定職に尽き、生活もようやく安定してきたが、生活が安定したことで逆に中国や歴史への思いが強まり、04年に円満退社し、瀋陽へ語学留学。
そして06年に大連にやってきて、いろいろ職を転々としながら今に至る。慣れない仕事や文化の違いには今でも苦労させられる。
大連では瀋陽時代の友人の紹介で、嫁さんにも巡り合えた。
この20年間を振り返ってみると、「よくもまあ」という感じがする。まさかこれだけ激動するとはね。まさに山あり谷あり、七転八倒!
中学生のころ考えた将来の自分の人生は、ただなんとなく中学から高校へ行き、普通に就職するか家の仕事を継いで、平凡に暮らしながら年をとっていくという一本道だったんだが・・・・・・
これからの20年もいろいろありそう。どうなるかはわからんが、少なくとも退屈することはあるまい。
嫁さんともども頑張っていこう!
“昭和が終わった日 そして二十年が過ぎた” に対して2件のコメントがあります。
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人生とか、国家と民族の歴史の話題ではいつも複雑な情感になった。
>Amin agu 様う~ん、人生とか国家とか、天皇とか、こういう問題は短い言葉では語りつくせないですね。如果把我心里的思想和遇到过的人生冷暖都写出来的话,能够写出两,三本的书啊。