sansi、šansi、ginjeo――漢語地名の満洲語表記について
漢語(中国語)の地名は、満洲語史料では一般に音写により表記されることが多い。
以下、満文老檔研究会訳註『満文老檔』(東洋文庫、1959~1963)の地名索引から例を拾ってみた。
左が漢語、右が満洲語(メーレンドルフ式ローマ字)
遼東 liyoodung
瀋陽 šen yang または simiyan
(天聡八年(1634)盛京 mukden に改名)
遼陽 liyoo yang
旅順口 lioi šūn keo
寧遠 ning yuwan
山東 šandung
四川 sycuwan
漢語の固有名詞を音写する場合、漢字一文字の発音ごとに分かち書きする場合と続け書きする場合がある。これは慣習または史料筆者の癖による。
では、漢語の同音・類似発音の地名の場合はどうしていたのだろうか。
例えば、山西と陝西はピンイン表記するとそれぞれ shan1xi1 と shan3xi1 というように発音が類似している。漢字で書けば一目瞭然だし、発音も山は第一声(陰平)、陝は第三声(上声)と声調が異なるので区別可能だ。
だが、声調のない満洲語・満洲文字でそのまま音写した場合両方共 šansi シャンシになってしまい、区別できない。声調言語である漢語の単語を非声調言語に音訳するとしばしばこうしたことが起こる。
そこで、清代の満洲人は山西は sansi サンシ、陝西は šansi シャンシと呼ぶことで区別している。
さて、山西と陝西は一文字目を似たような発音の別の満洲文字に置き換えることで区別した例だが、地名を思い切って意訳してしまった例もある。
現在の遼寧省、清代の盛京(奉天)将軍管轄下の主要都市である遼東半島の金州(現遼寧省大連市金州区)と遼西地方の錦州(現遼寧省錦州市)の表記も満洲人にとり厄介な問題だった。
金州と錦州は、現代漢語ではそれぞれ金州 jin1zhou1 と錦州 jin3zhou1 と類似した発音で、当時もほぼ同音だった。そのため、満洲語史料ではどちらも jin jeo または ginjeo、gin jeo と音写されることになり、非常に紛らわしくなってしまった(下表参照)。後金(清)初期に明の漢人都市だったこの両都市を占領して以来、この問題は常につきまとっていた。
以下、清朝前期の史料から金州と錦州の満洲語での表記例を拾ってみたい(1)。なお、各史料については、次のリンク先を参照されたい。
宣和堂遺事:マンジュ史書を整理してみた(2012.1.4閲覧)
http://sengna.com/2011/06/26/manjyubooks//
まず、満文『大清太祖武皇帝実録』(北京図書館本。以下、満文『太祖武皇帝実録』という)では、管見の限り、金州の表記例は巻四、天命六年(1621)三月二十一日条、錦州の表記例は巻四、天命七年(1622)正月二十四日条が初出だが、金州と錦州はともに jin jeo と表記されている。今西(1960)pp.286~287によれば、これは崇徳年間(1636~1643)の檔案史料に見られる古い表記らしい。
金州 jin jeo(赤枠内)「金」に対応する jin と「州」に対応する jeo が分かち書き。
満文『太祖武皇帝実録』巻四、天命六年(1621)三月二十一日条
錦州 jin jeo(赤枠内)「錦」に対応する jin と「州」に対応する jeo が分かち書き。
満文『太祖武皇帝実録』巻四、天命七年(1622)正月二十四日条
次に、『満文老檔』では、金州の表記例は太祖二十、天命六年四月一日条が初出、錦州の表記例は太祖三十四、天命七年二月二日条が初出だが、金州と錦州は共に ginjeo と表記されている(錦州は少数ながら gi jeo という表記もあり)。このように満洲語では金州と錦州は同じ表記をされることが多かったらしい。
一方、満文『太祖武皇帝実録』とほぼ同内容の『満洲実録』では、金州は満文で gin jeo と分かち書きされ、錦州は満文で ginjeo と続け書きされている。これは両者の区別のためと思われる。以下、さきほど引用した満文『太祖武皇帝実録』記事と同日の記事を引用する。
金州 gin jeo(赤枠内)「金」に対応する gin と「州」に対応する jeo が分かち書き。
上段は満文、中段が漢文、下段がモンゴル文。
『満洲実録』巻七、天命六年(1621)三月二十一日条
錦州 ginjeo(赤枠内)「錦」に対応する gin と「州」に対応する jeo が続け書き。
『満洲実録』巻七、天命七年(1622)正月二十四日条
だが、これでもまだ区別しにくい
このように、金州と錦州は満洲語表記ではどちらも同じ表記になってしまうため、当時の満洲人を悩ませた。しかも、金州と錦州はどちらも主要都市であり、公文書と史書の双方に頻出するため、両都市の混同は絶対に避けなければならなかった。
そこで、乾隆四十六年(1777)に乾隆帝の発案で、金州は aisin jeo、錦州は junggin jeo と意訳することで区別することになった。満洲語の aisin は金、 junggin は錦を意味し、jeo は漢語の州を音訳した借用語である(佟(1997)pp.58~59。佟(1997)の注によると、原史料は遼寧省檔案館蔵『盛京内務府檔』第113-5789巻。乾隆四十六年(1777)の上諭)。
以下、これまでの内容を表にまとめてみた。
金州と錦州の満洲語表記
金州 | 錦州 | |
満文『太祖武皇帝実録』の表記 | jin jeo | jin jeo |
『満文老檔』の表記 | ginjeo | ginjeo |
『満洲実録』の表記 | gin jeo | ginjeo |
乾隆帝の発案による表記 | aisin jeo | junggin jeo |
満洲語の漢語地名の表記からは、漢語と必死に格闘した当時の満洲人たちの苦心と知恵がうかがえる。自分も翻訳者として日々漢語と格闘しているので、満洲人の先人たちの努力には学ぶべき点が多い。
(1)満文史料での ginjeo/gin jeo という地名の初出は、満文『太祖武皇帝実録』巻二・『満文老檔』太祖二・『満洲実録』巻三各史料の壬子年(1612)九月条のウラ ula 部(現吉林省)攻めの記事。これら史料の記事によると、ウラ部本城のウラ城(現在の吉林市龍潭区烏拉街満族鎮)の西門から二里の距離、松花江の河岸に「ginjeo」という名の城があり、ヌルハチがここで設営したとある。この「ginjeo」は、満文『太祖武皇帝実録』・『満文老檔』では ginjeo 、『満洲実録』ではgin jeo と記され、『満洲実録』漢文の該当箇所では「金州」となっている。
だが、この「金州 ginjeo/gin jeo」は、地理的位置からもわかるように盛京将軍(現遼寧省)管轄下の金州や錦州ではない。今西(1967)p.105では、松花江西岸の土城子、すなわち現在の土城子満族朝鮮族郷に比定されている。
また、史料への登場も少ない。したがって今回は取り上げなかった。
参考文献(順不同)
(史料)
『大清太祖武皇帝実録』(満文・北京図書館本影印)(「〔満文〕大清太祖武皇帝実録」『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所、1967年)
満文老檔研究会訳註『満文老檔』財団法人東洋文庫、1955~1963年
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))
(論著)
今西春秋(1960)「満文武皇帝実録の原典」『関西大学東西学術研究所論叢』40 →『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所、1967年
今西春秋(1967)「Jušen国域考」『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所
佟永功(1997)『功在史冊――満語満文及文献』遼海出版社(瀋陽)
“sansi、šansi、ginjeo――漢語地名の満洲語表記について” に対して8件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。
早速拝読させて戴きました。地名表記をめぐる問題はいつも面白く見ておりますが、これは満洲語言語資料をさらに当たっていくと、何か思わぬ発見があるかもしれませんね。実は佛教関係もそうでして、尊像の名称も、漢語音訳だったり、意訳だったりと一定しておりません。故宮の扁額も、奉天は意訳が多いですが、北京のものは完全に漢語音訳ですね。漢語文化に同化して満洲語が衰微していく過程にあっても、そうした趨勢に抵抗した資料(三合教科書)もありますが、やはり社会科学や自然科学などの抽象語彙も頻繁に使われないとその言語はどうしても他言語に地位を譲る結果になってしまうのではないかと考えます。
コメントをいただきありがとうございます。仏教関係もそういうふうになってるんですね。勉強になります。地名や固有名詞の満洲語表記は結構興味深いものがあります。史料や年代により、結構相違がありますし、場合によっては一つの史料でもきちんと統一がとれていない場合もあります。
そこからは満洲人たちの漢語との格闘の歴史が見いだせ、同じく漢語と格闘してきた日本人として非常に親近感を覚えます。
社会科学や自然科学などの抽象語彙も頻繁に使われないとその言語はどうしても他言語に地位を譲る結果になってしまうというのは同感です。つまり、その言語が抽象概念の飛びかう現代社会において使いにくくなってしまうわけで、言語の存続にとり大きな不利要素となります。これは満洲語をはじめとする少数言語が漢語に押されている大きな要因の一つだと思います。
これは世界的な趨勢のようです。一例を挙げますと、奈良大学時代に青木芳夫先生(ラテンアメリカ史)の講義で青木先生からお聞きしたペルーのケチュア語の現状もそうでした(奥さんはペルーのインディオの方)。ケチュア語には社会科学や自然科学などの抽象語彙が不足しているので、高等教育ではどうしてもスペイン語が優勢になってしまい、それがケチュア語の衰退を招いているとのことでした。
満洲語・シベ語ではこうした抽象語彙の案出にかなりの努力を払っていますが、前途多難なようです。
>瀋陽 simiyan
ンを mi で写すのは感慨深いものがあります。
本邦でも、ンという不気味な文字(音)が開発される前に、
文(ブン)を「フミ」と写しているからです。
しかし満洲語ではンに当たる文字(音)が最初から n, ng と揃っています。
だから恐らく n-y の繋がりで mi となったのでしょう。
満洲語では n, m の交換ってよくあるのでしょうか?
更には湯桶読み(翻訳)まで。漢語と日満語の文法差を感じさせます。
(余談:表音文字しかない苦労。膨大な字数を操る苦労。
>漢字で書けば一目瞭然。
本当、solho niyalma は損してると思います。
越南はローマ字化前から凄い事になってたので損得不明。
現代のローマ字表記でも付加記号満載。)
コメントをいただきありがとうございます。
勉強になります。
>しかし満洲語ではンに当たる文字(音)が最初から n, ng と揃っています。
>だから恐らく n-y の繋がりで mi となったのでしょう。
恐らくそうだと思います。
>ンを mi で写すのは感慨深いものがあります。
>本邦でも、ンという不気味な文字(音)が開発される前に、
>文(ブン)を「フミ」と写しているからです。
なるほど!灯台下暗しでした。
>満洲語では n, m の交換ってよくあるのでしょうか?
よく調べたわけではないのですが、一般にはあまり見かけないです。語頭のn、m音の交換は、漢語の鳥槍 niao qiang を miyoocan と音写している例もあります(これはあるいは漢語の東北方言の影響かもしれません。東北方言では n音とm音の発音の区別が曖昧なことがありますので)。
羊兄,好久不见,一向可好?
大连应该已经是很冷的哈,注意身体哈。
大致看了一下内容,虽然俺不懂满文,应该感觉和
日语中的音读、训读差不多吧?
あけましておめでとうございます。
好久不见!我们过得很好。
今天的大连气温降到零下10度左右,但比沈阳还暖一些。
我也觉得乾隆皇帝的想法很像日语中的音读、训读。
跟日本人一样,自古以来满洲人(女真人)通过不断摸索,把汉语词汇应用在自己语言里。
我对乾隆皇帝和满洲人怀亲近感。
当代満洲語の歌
http://v.youku.com/v_show/id_XMzI5NDU2MDI0.html
はじめまして。
良い歌ですね。本当にありがとうございます。
umesi sain ucun,dembei baniha!
今後とも本ブログをよろしくお願いいたします。