グルマフン(鄭命寿 チョン・ミョンス)(下)

 
 抵抗
 
 朝鮮側も全く無抵抗だったわけではない。

 崇德六年(朝鮮仁祖十七年 1639)に、人質として盛京(瀋陽)に住まわされていた朝鮮世子の随臣鄭雷卿はグルマフンの横暴に耐えかねて彼の不正を告発したが、十分な証拠を示すことができず、逆に誣告の罪に問われてしまった。

 世子はせめてもの温情で雷卿を服毒自殺させようとしたが、グルマフンは強硬に斬殺を主張。結局絞殺に落ち着いた。それでも処刑に立ち会ったグルマフンは朝鮮側の死刑執行人を口を極めて罵り、殴打したという。

 ここまで来るともう常軌を逸しているような気がする。

 

 権力の背景

 
 では、たかだか一通訳に過ぎなかったはずのグルマフンがなぜここまで好き放題できたのだろうか。
 その背景には無論清朝の強大な国力が存在したが、彼の横暴ぶりを説明するにはそれだけでは不十分である。
 
 清朝も朝鮮でのグルマフンらの度を過ぎた横暴ぶりを知れば、さすがに取り締まりに乗り出すのが常識というものだが、ドルゴンの生前にはそんな形跡すら見られない。いくらなんでも清朝(ドルゴン)がグルマフンの行いを全く知らないなどということはありえない。
 
 前述のように彼の庇護者であったイングルダイは八旗の鑲白旗(崇徳八年(1643)に鑲白旗と正白旗が入れ替わったのに伴い正白旗へ移籍)の有力者であったが、その鑲白旗(のち正白旗)の旗王はほかならぬドルゴンだった。イングルダイはドルゴンの信任が厚く、その腹心として清初の政局に重きを成した(『八旗通志(初集)』卷一百五十四 名臣列傳十四 英俄爾岱)
 
 そしてドルゴンは順治年間に「皇父摂政王」として、清の事実上の支配者となった。
 すなわちイングルダイそしてその部下グルマフンの権力の源は、ドルゴンの直臣としての身分であった。
  
 あくまで一つの推測ではあるが、彼らが朝鮮で得た利権、利益のうちかなりの部分は両白旗とそのボスであるドルゴンへと渡っていたのであろう。
 
 初期の清朝はいわば八旗各旗で構成される連合王国であった。八旗は相互に独立しており、ハン(皇帝)といえども正黄、鑲黄の二旗の支配者(旗王)にすぎない。
 そして、旗人官僚は皇帝-臣下という表向きの主従関係に属するのと同時に、伝統的な旗王-旗人というもう一つの主従関係にも属していた。清初の旗王たちはしばしばこの非公式な主従関係を利用して自旗出身の官僚に利権あさりをさせ、また彼ら共々利権を分配していた。
 たとえば、ある旗人が地方の役人として赴任、その任地で職権を利用して蓄財に励みつつ、そのうちの何割かを出身旗の主君である旗王に贈り、旗王は家臣である旗人に何かと便宜を図ってやるというようなケースが多々見られた。
 
 ともかく、グルマフンの横暴ぶりの背景には、上司のイングルダイ、そしてドルゴンとの旗人としての主従関係があったということだろう。
 
 
 失脚-奴隷から奴隷に-
 
 金や権力をほしいままにしたグルマフンだったが、その栄光もついに終わりを迎えるときが来た。
 
 順治八年(孝宗二年 1651)六月、清に赴いた李時昉は、グルマフンの様子について朝鮮王に「大いに憂惧の色有り」と報告している。
 
 それまで一貫してグルマフンの庇護者であったイングルダイはすでに三年前の順治五年になくなっており、しかも前年の十二月には摂政王ドルゴンも世を去ってしまった。
 この年巻き起こったドルゴン派への粛清の嵐がやがて彼にも及んでくるのはもはや時間の問題であった。
 
 翌順治九年に、彼の朝鮮での取り巻きであった通訳李馨長が処刑された。
 これまでほとんど沈黙を強いられてきた朝鮮側もグルマフンの勢力の衰えを察知し、徐々に包囲網を狭めていった。
 
 そして、順治十年(孝宗四年 1654)、清朝はついにグルマフンを処断した。
 内容は「グルマフンは罪が大きく、本来は絞首刑とすべきであるが、功績に免じて死刑は猶予し、財産没収の上奴隷とする」であり、直ちに朝鮮に伝えられた。
 
 朝鮮側はこれを受けて、彼の甥や親族の免職と処罰、殷山と義州に囲っていた妾の原籍送還、この二箇所の官吏で彼になびいていた者の免職などの許可を求め、刑部を通じて順治帝に上奏した。 
 
 順治十年十月十日付でこの上奏は裁可され、朝鮮の黒幕として絶大な勢力を誇ったグルマフンは再び奴隷となってしまった。
 朝鮮での彼の取り巻きも次々と失脚し、彼の築き上げた大勢力は瞬く間に消え去ってしまった。
 
 ただ朝鮮の怒りはなおも消えず、生きている以上また通訳に起用されるのではないかとの不安もあって、翌月やってきた清の使節にその点を尋ねている。そして清の使節は「万が一にもそんなことはない」と言明し、事実その通りとなった。
  
  彼のその後の消息はよくわからない。
 
 楊海英氏は『内国史院檔』の順治十二年二月二日の国子監の孔子廟祭祀の記事に現れる「グルマフン」に注目し、その後彼が国子監の教官に任ぜられた可能性があるとしているが、断定は避けている。
 
 なお『八旗滿洲氏族通譜』卷七十三 附載滿洲旗分内之高麗姓氏 丁氏の條には
  

古爾馬渾,正紅旗包衣人。世居恩山縣地方。國初來歸,原任通事官。其子白晉魁原任護軍校、孫莽董儀、皮占、倶原任護軍校 

 
 とあり、彼の子孫はある程度の官職に就くことはできたようだ。
 
※この記事では彼の旗属が正紅旗となっている。彼はドルゴン派に属してはいたものの、その鑲白、正白の両白旗に属していなかったか、あるいは彼は両白旗のいずれかに属してはいたが子孫が正紅旗に移ったため「正紅旗」として記載された可能性も考えられるが、史料の制約のためその点は明らかには出来ない。
 なお「恩山縣」について楊海英氏は「殷山縣」の転訛ではないかとしている。

 

 
  終わりに
 
 グルマフンは奴婢として生まれ、後金に仕えて出世を重ね、通訳として外交を左右し、やがて朝鮮政界の黒幕として一大勢力を誇るまでになった。だが、最後はまた奴隷に落とされてしまった。
 彼の金や権力への執着は常軌を逸したところがあるが、これは奴隷として自分や家族を虐げた祖国への復讐だったかもしれない。
 
 歴史の変わり目にはえてしてこういう人物が時代を動かすようだ。
 
 
 
 あと、こんなエピソードもあります。
 
 
参考文献(順不同)
(史料)
『八旗滿洲氏族通譜』遼瀋書社 1989
『八旗通志』東北師範大学出版社 1985
 
 
(著作・論文)
杜家驥「清初両白旗主多爾袞與多鐸換旗問題的考察」(『清史研究』1998年第3期)
楊海英「清初朝鮮通事考-以古爾馬渾為中心-」(『清史論叢』2001年号 中国社会科学院歴史研究所明清史研究室編 2001)
楊海英「朝鮮通事古爾馬渾(鄭命寿)考」(『民族史研究』第三輯 2002)
田中克己「通訳グルマフン」(『石濱先生古希記念東洋学論叢』関西大学石濱先生古希記念会 1958)
阿南惟敬「睿親王多爾袞の領旗について」(『防衛大学校紀要』二十六 1973)
同「八旗通志満洲管旗大臣年表「鑲白旗」考」(『防衛大学校紀要』二十八 1974)
(阿南氏の両論文は共に 同著『清初軍事史論考』甲陽書房 1980 に再録)
「鄭命寿」(『アジア人物史』7 近世の帝国の繁栄とヨーロッパ[16-18世紀](集英社、2022年)、p.462) 
2024年7月15日 記事(上)・(下)の題名を変更し、鄭命寿の本名のカタカナ表記とハングル表記を追加、参考文献を追加、記事本文を加筆訂正、「追記」を削除