論文100本ノック――2本目~3本目(2021年1月4日~1月8日)

1月4日(月)から1月8日(金)に読んだ論文は以下の2本。

2本目:楊珍「清一等公常泰考略」(『満語研究』2016年第2期(総第63期)、p128-132→楊珍『清前期宮廷政治釈疑』中国社会科学出版社、2018年、第四章第二節「常泰事跡鈎沈」、p.161-167)
https://chn.oversea.cnki.net/KCMS/detail/detail.aspx?dbcode=CJFD&dbname=CJFDLAST2017&filename=MYYJ201602022&v=Et7S6MVpqUCMZJKZsvJfo9MGmsf5szAYDhuBbJzqvti9t3Qcy8g1PYaYNiuSQb4X

チャンタイ cangtai (常泰、長泰、昌泰、生没年不詳)は、康熙年間初期の輔政大臣ソニン(索尼)の長孫であり、康熙帝の孝誠仁皇后の同母弟、皇太子胤礽の母方の叔父にあたる。権臣ソンゴトゥ(索額図)はチャンタイの叔父にあたる。
彼は大学士、領侍衛内大臣などの要職を歴任し、対ジューンガル戦において新たに編成された火器部隊「火器営」の指揮官となり、康熙三十五年(1696)の康熙帝のモンゴル親征において活躍した。
このような重要人物にもかかわらず、皇太子問題に巻き込まれて失脚したことにより、彼の事績は極めて不明瞭であり、伝記史料も一切存在しない。
本論文では、このチャンタイについて、主に『清聖祖実録』、『親征平定朔漠方略』、『八旗通志初集』、『八旗満洲氏族通譜』、『永憲録』および満文檔案史料を元に、彼の事績の考証を試みている。
チャンタイの事績について、現時点でわかる範囲での情報が整理されており有用である。
しかしながら、チャンタイがいつ、どのような罪を得て、具体的にどのような理由で失脚したかについては、本論文においても史料の限界により明らかにはできていない。
ただ皇太子問題に巻き込まれて康熙帝の強い怒りを買って失脚したことがうかがえるのみである。
著者はチャンタイの没年について、おおよそ康熙四十七年(1708)の廃太子前ではないかとしている。

3本目:村田雄二郎「ラスト・エンペラーズは何語で話していたか?――清末の「国語」問題と単一言語制」(『ことばと社会』3号、三元社、2000年、p6-31)
http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/068.htm

中国近代の漢語への言語統一の前史として清朝の「国語」問題について論じる。
清末でも皇帝が宮廷の公式の場では満洲語を話しており、それがシンボル的な意味を有していたこと。清露間の条約の使用言語。洋務運動の施策として設置された外国語学校である同文館は、清朝が非漢語言語を包摂する既存のシステムを元にしていることなど、興味深い事例にも触れている。
これまでの「漢化」モデルを相対化し、清朝がその「国語」である満洲語と漢語、そしてそれ以外の外国語にどう向き合ってきたかをわかりやすく述べている。