崇政殿

崇政殿(満文:Wesihun dasan i diyan)

崇政殿(2004年4月撮影)

崇政殿(2004年4月撮影)

崇政殿 満漢合璧の額

崇政殿 満漢合璧の額 (満文:wesihun dasan i diyan,, 崇高なる政治の宮殿 2004年4月撮影)

 大清門をくぐると正面に見えてくる宮殿で、瀋陽故宮の正殿。太宗ホンタイジはここで政治を行い、外国使節の朝見の儀式や饗宴もここで行われた。天聡年間(1627~35)に完成、崇德元年(1636)正式に崇政殿と命名された。北京への遷都後も、皇帝の東巡(東北への行幸)時にはここで政務や典礼を行った。

崇政殿が現在の姿になったのは、乾隆十一年~十三年(1746~48)頃にかけて行われた崇政殿および宮殿中路の大規模な増改築の後である。

 崇政殿は硬山式と呼ばれる中国北方地区によく見られる建築様式で建てられている。硬山式は日本建築の切妻造に近いが、左右の側壁(山牆)が屋根の上端より少し高い位置まで延び、左右の軒先が外側へ張り出していない点が異なる。崇政殿は間口が五間(柱四本、柱間に五つの空間)の五間硬山式で、大清門や清寧宮と共通の様式となっている。

硬山式(『漢語大辞典』縮印本、p.4510)

硬山式(『漢語大辞典』縮印本、p.4510)

 屋根は他の建築物と同じく黄色い瑠璃瓦を用い、緑の瑠璃瓦で縁取りされ、左右の隅棟には走獣が置かれている。

 大棟(屋頂)の左右両端には鴟吻(しふん 螭吻 ちふん)と呼ばれる神獣の像が置かれている。鴟吻は「龍生九子」、すなわち龍が生んだ九匹の子の一匹で古来雨や水をもたらす神として崇拝されており、建物を火災から守る役割を担っている。そして龍の一族である鴟吻は、龍の化身たる中国皇帝が利用する建築物にのみ置くことが許される高貴な装飾でもある。

 また大棟の左右両端は、側壁と屋根の前後の勾配の三面が交わる場所で非常に隙間ができやすいため、鴟吻の像を置くことによって密封し、雨漏りを防ぐという実用的な意味もある。

 なお、日本のしゃちほこはこの鴟吻が変化したものらしい。

鴟吻 口を開いて水を吐き出している(2012年8月撮影)

鴟吻 口を開いて水を吐き出している(2012年8月撮影)

 建物正面(南側)の軒下の柱は四角形の柱が用いられ、軒には斗拱(ときょう)と呼ばれる枡形の飾りが取り付けられているが、これはチベット仏教寺院によく見られる手法。入口左右の斗拱には首をもたげた龍の彫刻が取り付けられている。

四角形の柱と上部の斗拱(枡形の飾り)

四角形の柱と上部の斗拱(枡形の飾り)(2008年9月撮影)

 正面左右角(墀頭)には瑠璃の浮き彫りがあり、これは大清門とも共通している。

  内部には玉座(宝座)が置かれ、その両側には天空を舞う二匹の龍、後ろ側には金色の屏風があり、非常に威厳のあるつくりとなっている。玉座真上の天井には「正大光明」の扁額が掲げられている。

崇政殿宝座(玉座)(2004年4月撮影)

崇政殿宝座(玉座)(2004年4月撮影)

崇政殿宝座(玉座)(2008年9月撮影)

崇政殿宝座(玉座)(2008年9月撮影)

宝座真上の天井に掲げられた扁額「正大光明」 (2008年9月撮影)

天井の「正大光明」(2008年9月撮影)

 正面から見て左右にはそれぞれ、嘉量(枡、容積の原器)と日晷(にっき、日時計)が置かれている。これらは乾隆十一年~十三年(1746~48)頃行われた、崇政殿と宮殿中路(中央部)の増改築の際に置かれたものである。

 宮殿正面に容積の原器と日時計が置かれている理由は、これこそがまさに中華帝国と中国皇帝のシンボルだからである。始皇帝が天下統一後に度量衡を統一したように、度量衡は古来から国家統一の象徴とされてきたし、時間つまり暦とは天の子たる皇帝が臣民に授けるもので、皇帝の権威の象徴であった。つまり、この一見何の変哲もない枡と日時計は国家の統一、そして皇帝の権威を象徴する重要な意味を持っている。

嘉量(2012年8月撮影)

嘉量(2012年8月撮影)

日晷(2012年8月撮影)

日晷(2012年8月撮影)

 崇政殿左右には、それぞれ左翊門と右翊門という小さな入り口があり、鳳凰楼や後宮へと通じている。

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参考文献・サイト(順不同)

(参考文献)
佟悦編著『瀋陽故宮』清文化叢書、一宮三陵系列、瀋陽出版社、2004年
羅麗欣:文・佟福貴:図『瀋陽故宮』遼寧世界遺産画廊、瀋陽出版社、2005
村田治郎『満洲の史蹟』座右宝刊行会、1944年
『漢語大辞典』縮印本、漢語大辞典編輯委員会、漢語大辞典編纂処編纂、漢語大辞典出版社、 1997年
西村康彦「紫禁城の神獣・幻獣たち」月刊『しにか』2000年4月号、pp58~65、2000年