第三章 編成当初の火器営

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はじめに

 本章では、まず火器営の編成内容について検討し、次いで前章で述べた「漢軍火器営」との比較により、その特色を考察し、清朝軍事史上における火器営編成の意義を明らかにしたい。この問題は、これまで王兆春氏らが言及し、皇帝と満洲人による火器の支配という面(1)王兆春『中国火器史』 pp265~266、解立紅「紅衣大砲与満洲興衰」、 pp110~111。を強調されているが、本章で述べるように、その意義、目的は決して火器の支配のみに留まるものではなかった。以下、順を追って考察を進めて行きたい。

第1節 火器営の編成時期

 満洲・蒙古旗人による火器営の設立時期については、本章で述べる雍正『大清會典』以降の政書に康熙三十年(1690)と記され、魏源の『聖武記』卷三、康熙親征準噶爾記には、

(康熙)三十一年、以前征準噶爾時火銃便利、立火器營。

とある。

 ここで、史料に現れる最も早い用例を捜せば、『朔漠方略』卷九、康熙三十年三月庚子(十四日)に

命詳定會閲事宜。

理藩院奏言:「……今噶爾丹遠去、此一會閲也、應將前所發八旗兵減去、率毎佐領護軍四名、前鋒全隊、漢軍火器營兵而往。其毎佐領護軍一名、驍騎三名倶不必帶往。滿洲火器營護軍正當操練、亦不必帶往……」。上曰:「汛哨、令都統、副都統、兩兩分班巡察。餘如議」。

と見える。

 前章で触れたように、康熙三十年五月、清朝は、ジューンガル部のガルダンの侵攻を受け、混乱したモンゴル、ハルハ部を清朝の支配下に再編成するため、ハルハ部諸王公を招集し、ドロン=ノールにて会盟を挙行した。この史料はハルハ部諸王公への示威を目的とする会閲の準備に関するものである。この記事の下線部を見れば、前鋒営、護軍営、「漢軍火器営」の会閲参加が決定しているのに対し、「満洲火器営」(火器営)下の護軍(鳥鎗護軍)は「正に操練するに當りて、亦た必ずしも帶往せず」として、不参加を決めている。訓練を理由に、清朝の兵威を示す重要な会閲に参加しないということから、「満洲火器営」の訓練はこの段階では甚だ不行き届きであったといえる。この事実と『會典』の記事とを考え合わせれば、当時、火器営は設立後間もなかったことが導き出される。よって、火器営の設立は、康熙三十年三月の少し前、すなわち康熙三十年年頭とすべきであろう(2)乾隆『大清會典則例』卷一百七十五、八旗都統、訓練には、「(康熙)三十年奏準」として、春季の操練に毎ニル1名の鳥鎗護軍を参加させる規定が記載されている。

第2節 編成当初の構成員と兵力

 清代軍事史を専門とする解立紅氏は、論文中で「火器営兵士は満洲八旗から動員され、全て満人であり、鳥鎗護軍、砲甲、養育兵に分かれていた」としておられる(3)解立紅、前掲論文 pp110~111。。解氏の論文の注によれば、氏は『皇朝文獻通考』卷一百八十一、兵考と光緒『大清會典事例』卷一千一百六十六、火器營に基づいて述べておられるようであるが、この二書の記述は、雍正・乾隆両『大清會典』をほぼ踏襲したものであり、かつ満洲兵のみで火器営が編成されていたという明確な論拠は見出せない。解氏はおそらく「満洲火器営」という名称によったと思われるので、本節では、編成当初の「満洲火器営」の構成員について、他の史料に基づき、その兵数とも併せて検討してみたい。

『八旗通志』(初集)卷二十六、兵制志一、八旗甲兵一には、「火器營來册」なる史料を引用し、

滿洲火器營、原設鳥鎗護軍二千六百三十七名、八旗領催、馬甲兵共三千八百五十七名、八旗礮營領催、馬甲八百七十七名。

右火器營來册  

という兵員数を記載している。なお、馬甲とは驍騎の別名である。この兵数は「原設……」という文言からして、編成当初の定数に極めて近いと考えうる。

 さて、先ほど前章の漢軍火器営の兵力の計算においても述べたように、康熙年間当時の八旗の佐領数についての明確な史料は現存していない。特に、満洲・蒙古両旗は、漢軍とは異なり、『八旗通志』(初集)旗分志所載のものでさえ、編成年次の不明なニルがそれぞれ76ニル、43ニルにも達する(4)序注(3)阿南惟敬「漢軍八旗成立の研究」。氏は『八旗通志』(初集)「旗分志」の記述に基づいて、満洲・蒙古・漢軍各ニルを編成年次毎に分類している。

 よって、ここではひとまず乾隆『大清會典則例』〔巻一百七十一、八旗都統一、編旗設官〕所載の年次別の八旗ニル編審数(5)乾隆『大清會典則例』卷一百七十一、八旗都統一、編旗設官には、乾隆二十二年(1757)までの、年度毎のニル編成数が記されているが、その根拠は不明。により、当時のおおよその兵力を算出しておきたいと思う。

同書によれば、康熙三十年(1690)のニル数は、満洲:616ニル、蒙古:197ニル、同三十四、五年(1695、96)には満洲:663ニル、蒙古:208ニルとなっている。これに雍正『大清會典』卷一百十一、兵部一、乾隆『大清會典則例』卷百八十、火器營に見える満洲・蒙古各ニル毎の兵員割り当て、満洲・蒙古毎ニルにつき、鳥鎗護軍3名、鳥鎗驍騎4名、砲驍騎1名を掛ければ、

鳥鎗護軍…満洲:1848名(1939名)、蒙古:531名(624名)→計2379名(2563名)

鳥鎗驍騎…満洲:2464名(2652名)、蒙古:738名(832名)→計3202名(3484名)

砲驍騎(「砲営」)…満洲:616名(663名)、蒙古:197名(208名)→計813名(871名)

以上、6334名(6918名)( )内は康熙三十五年の兵数。

となり、特に()内の康熙三十五年の兵数が、『八旗通志』(初集)の「火器營來册」のそれに近いことが見て取れる。従って、満洲ニルのみへの兵員割り当てではこの数には達し得ず、やはり蒙古旗人も「満洲火器営」に入隊したとするべきである。しかも、雍正以降の『大清會典』および以後の『大清會典事例(則例)』には、火器営と「満洲火器営」の用例が「火器営」と同一箇所に記載されていることから、同一の部隊と見なされていたことは間違いない。従って、「満洲火器営」とは、既存の火器軍である八旗漢軍や漢軍火器営との区別のための名称とすべきである。

 すなわち、康熙三十年(1690)の編成当初から八旗満洲・蒙古下の1ニル毎に、鳥鎗護軍3名、鳥鎗驍騎4名、砲驍騎1名、計6000名以上が選抜され、火器営に編入されていたのである。

第3節 火器営の装備

 まず、編成当初の火器営の装備については、雍正『大清會典』には明文はなく、乾隆『大清會典則例』卷一百八十に、満洲・蒙古の鳥鎗護軍、鳥鎗驍騎に鳥鎗1丁づつが支給され、満洲各旗毎に子母砲5門(図6)が配備される規定であったことが記載されている。その数字の信憑性について、『朔漠方略』卷十八、康熙三十四年(1695)十二月己亥(十一日)條に、

兵部會同漢軍都統副都統等査閲議:「……査軍中現備火礮、八旗滿洲毎旗馬駄子母等礮各五門、…‥。」。

と見え、康熙三十四年時点で滿洲各旗毎に子母砲5門、計40門が配備されていたことがわかるし、鳥鎗護軍、鳥鎗驍騎への鳥鎗支給も信頼してよかろう。

 次に、子母砲、鳥鎗の兵器としての特色を検討してみると、以下の様に要約できる。第一に、子母砲の特色であるが、第一章で既に述べたように、

①重量は、80斤~100斤(約48~60kg)(康熙二十九年製)と軽量であり、 輸送が容易、駄載可能であること。

②一発の発射には僅かに4両~6両(約149g~223g)の弾丸(康熙二十九年製)と2両(約75g)程の弾薬を消費するのみで、補給の負担は比較的軽い。

③射程(四、五百歩、約666m~833m)は、紅夷砲に劣るが発射速度が早い。

などが挙げられる。第二に、鳥鎗の特色であるが、重量は、6斤(約3、6kg)と軽く(図4)(6)『皇朝禮器圖式』(影印本、『欽定四庫全書』史部、政書、上海古籍出版社、1987)卷十六、武備四、火器、兵丁鳥鎗。、取扱いも比較的容易で、命中精度も高いことが挙げられる。そして、これらの装備から火器営の部隊としての特性を推し量れば、陣地戦、攻城戦を主な目標とする八旗漢軍等とは異なり、機動戦、野戦を想定して編成されたとすることができよう。

兵丁鳥鎗

図4 兵丁鳥鎗(『皇朝禮器圖式』巻十六、武備四)

 第三に、先に第一章でも述べたように、これら子母砲と鳥鎗は養心殿や景山で製造された高性能なものが配備され、それらは、原則として八旗漢軍や緑営に配備されることはなかった(7)王兆春、前掲書、p281参照。

 陝西肅州総兵官 路振声は康熙五十年(1711)正月三十日付の奏摺(8)『宮中檔康熙朝奏摺』第二輯、 pp855~859、〔「陝西肅州總兵官奴才路振聲謹奏、爲冒昧奏請事。……三年來、秣馬厲兵、營伍器具徐徐補葺、漸覺改觀。獨念衝堅破敵火器爲先、而得手應心、更無如子母砲位。査鎭營舊有子母砲捌拾位、鎭屬協路舊有子母砲肆拾位。演習年久、倶皆刷損無濟。不但發不中的、亦且造不合式、徒有其數。今奴才捐資改製、業已造成貳拾位。試爲演打、少裨實用、験其準頭、僅在貳百歩以内、終是不能致遠。奴才向叨扈從耳聞、主子内造子母砲、輕巧捷便、中的神速、可打肆伍百歩之遠。奴才不揣冒懇、仰乞天恩、討賜子母砲壹位發給。奴才家人黄煥駄囘肅州、奴才照式捐製、固守邊疆。造完之日、仍將原砲上。庶邊疆要地萬年沐指授之竒、玉塞雄關千載如金湯之固矣。爲此謹具奏摺、以聞。[硃批:内造子母砲外省從未叢去、故不輕給。砲子之去遠、非關砲鉄、實係火楽〕。爾留心火楽、即能至遠。康煕伍拾年正月參拾日、陝西肅州總兵官、奴才路振聲」〕。 で、鎮営と管轄下の協路の子母砲には、既に破損したものが多く、実用に堪えないため、現地での子母砲の製造を思い立ったと述ベ、「主子の内造せる子母砲」、即ち紫禁城内の養心殿にて製造された子母砲をモデルとして1門支給することを願い出ている。路振声は、奏摺の中でこの子母砲を「輕巧にして捷便、的に中つること神速にして、肆伍百歩の遠きをも打つ可し」と述ベ、一方路振声自作の砲は「験して其頭に準ずるは、僅かに貳百歩(約333m)以内に在りてのみ。終に是遠きに致す能はず。」としており、養心殿製造の火器の性能が他に抜きん出ていたことがわかる。

 しかも、康熙帝はこの奏摺に対する殊批に「内造せる子母砲は外省に從〔かつ〕て未だ叢〔おお〕く去かず。故に輕しく給へず。」と記してその要請を断っている。当時は、ジューンガル部の活動が活発化し、西方辺境にも不穏な空気が漂い始めており、路振声以外の総兵官もこの子母砲の給付を要請したが、康熙帝は決してそれを許さなかった(9)『康熙起居注』康熙五十四年(1715)乙未、十一月初五日丁酉條には「……又覆請兵部、覆山西太原總兵官金國正所題:「伊標下並無子母砲位、自行捐造二十二位、請分給各營、操練習熟、於營伍大有裨益」、准照請一疏。上曰:「子母砲係八旗火器、各省概造、斷乎不可。前師懿徳、馬見伯曾請造子母砲、朕倶不准行。此事部議准行、殊屬不合。爾等即照部議票擬、亦誤矣。本發還、着再議具奏」。とあり、康熙帝は怒りをあらわにして、子母砲の給付を禁じている。

 以上、装備の点からいえば、火器営編成の意義は、高い機動力と火力とを兼備した火器軍の誕生であり、また清初以来の懸案であった火器の輸送・補給問題に対する一つの回答であった。

 なお、火器営の旗纛であるが、雍正『大清會典』には明確な記述がなく、先ほどの乾隆『大清會典』卷一百八十に

‥‥‥又定火器營旗纛、各按旗色、護軍用金龍三角纛、驍騎用金龍方纛、均頂飾豹尾、加白號帶、以爲別、旗亦如之。甲胄、護軍校、護軍、驍騎校、驍騎均與八旗護軍、驍騎營同。

と旗纛に関わる規定が見える。参考として『皇朝禮器圖式』所載の図を添付する。

(図5)火器営旗纛 (『皇朝禮器圖式』巻十七、武備五)

火器営旗纛

火器営旗纛2

図5 火器営旗纛(『皇朝禮器圖式』巻十七、武備五)

第4節 編成当初の火器営の組織

 これまで、火器営の組織に言及したものは全て光緒『大清會典』の引き写しであり(10)序注(1)参照。、編成当初の火器営については未だ不明の点が多い。本節では、火器営の編成当初の組織について、(a)総管・護軍参領・護軍校・驍騎参領・驍騎校、(b)鳥鎗護軍、(c)鳥鎗驍騎、(d)砲驍騎に分けて考察を進め、雍正、乾隆『大清會典』の記述の裏づけを行っておきたい。

(a)総管(総統)・護軍参領・護軍校・驍騎参領・驍騎校

 雍正『大清會典』卷一百十二、兵部二には「満洲火器営」の指揮官について、

管領滿洲火器營[康熙三十年設、總管六員]、護軍參領[毎旗二員]、驍騎參領[毎旗三員]、閒散旗員[毎旗七員]、護軍校[毎旗十四員] 、驍騎校[毎旗十四員] 、管礮旗員[毎旗五員]、管礮驍騎校[毎旗五員。舊有管理漢軍火器兼練、大刀營衙門。康熙二十八年設、毎翼總管一員、以現任副都統兼管。毎旗協領、參領各一員、操練尉、驍騎校各五員、三十六年停止。]

とあり、参考として乾隆『大清會典則例』卷一百八十、火器營を掲げると、

一、建置。康熙三十年、設火器營。以公侯大臣爲總統。專理營務訓練。官軍所屬:設護軍參領十有六人、旗各二人。鳥槍驍騎參領、滿洲旗各二人、蒙古旗各一人。管鳥槍散秩官、滿洲旗各五人、蒙古旗各二人。管礮散秩官 滿洲旗各四人、蒙古旗各一人。鳥槍護軍校、滿洲旗各十人、蒙古旗各四人。鳥槍驍騎校滿洲旗各十人、蒙古旗各四人[以上官校均兼任]。八旗滿洲、蒙古毎佐領下鳥槍護軍三名、鳥槍驍騎四名、礮驍騎一名。

と見える。

 まず、「満洲火器営」すなわち火器営には、全体を統括する総指揮官として6名の総管が任命されており、その下に八旗毎旗(満洲・蒙古合わせて)に2 名、合計16名の護軍参領と3名の驍騎参領が設置されたこと、さらに旗毎にそれぞれ閑散旗員が7名、護軍校が14名、驍騎校は14名、管砲旗員5名、管砲驍騎校が5名選抜され、火器営下に配属されたことがわかる。

 次に、これらの官職について検討すると、総管の用例は、管見の限り『聖祖實録』卷一百五十六、康熙三十一年(1692)九月壬申條(二十六日)、癸酉(二十七日)條の大閲の記事に、「總管鳥鎗騎兵内大臣公長泰等」と見えるのが最初である。この大閲では、後述のように初めて騎兵(恐らく火器営であろう)による銃撃訓練が行われたが、それを指揮した「総管鳥鎗騎兵内大臣公長泰」(11)〔チャンタイ cangtai〕長泰(常泰)については、『八旗通志』(初集)卷一百十四、八旗大臣年表七、八旗内大臣等年表下に、康熙三十一年(1692)九月から同三十六年(1697)十月に鑾儀衛掌衛事内大臣の職にあったことを記し、その他『聖祖實録』、『朔漠方略』などの史料に散見されるが、管見の限り伝記は一切見当たらず、康熙三十七年以降の事跡は不明瞭である。〔楊珍「清一等公常泰考略」(『満語研究』2016年第2期、2016)によると、チャンタイはソニン sonin(索尼)の孫、康熙帝の孝誠仁皇后の弟であり、重臣として活躍したが、皇太子問題に巻き込まれて失脚、康熙四十七年(1708)頃に亡くなっている。なお、ソニン及びチャンタイの満洲語での綴りは『八旗滿洲氏族通譜 jakūn gūsai manjusai mukūn hala be uheri ejehe bithe』(満文本、東京大学総合図書館蔵)、巻九 uyuci debtelin、都英額地方赫舍理氏 duyengge ba i hešeri hala、碩色巴克什 šose baksi條にて確認。〕等が、雍正『大清會典』に見える「総管」かと思われる。

 また、『朔漠方略』卷十九、康熙三十五年(1696)正月己巳(十二日)條には、

命添設鳥鎗大臣。

上諭内大臣公常泰曰:「鳥鎗大臣太少、一旗應設大臣一員、統率爲善、除前鋒統領碩鼎、不可別調外、鑲黄旗派内大臣馬思喀、正黄旗派都統侯巴渾泰、正白旗派護軍托倫、正紅旗派公常泰、鑲白旗派護軍統領蘇赫、鑲紅旗派副都統孫渣齊、正藍旗派副都統雅圖、鑲藍旗派副都統宗室鄂飛、管領。此派出大臣、各照本旗旗色持纛前往」。

としている。正紅旗の常泰は先ほど述べた長泰の同音異訳であり、同年春のモンゴル親征を前にして、彼以外に旗ごとに1人づつが「鳥鎗大臣」に任ぜられたとあるが、この鳥鎗大臣は先ほどの『聖祖實録』に見える「總管鳥鎗騎兵」を指すと見られる。

 よって、総管は内大臣、八旗都統等の皇帝に近い親貴・高官が現職のまま兼任していたと考えられ、それは、乾隆『大清會典則例』巻一百八十、火器營に「公侯大臣を以て總統と爲し、専ら營務訓練を理めしむ」としていることからも裏づけられる。

 八旗の他の営とは異なり、火器営の指揮官は『實録』や『八旗通志』(初集)等の職官年表には明記がない(12)(79)『八旗通志』(初集)卷一百十三、卷一百十四、八旗大臣年表七~八 八旗内大臣等年表上・下には順治元年(1644)から雍正十三年(1735)に至る領侍衛内大臣、内大臣、護軍統領、前鋒統領、歩軍統領、内務府総管、鑾儀衛掌衛事内大臣、鑾儀使の任免を記しているが、火器営総管(総統大臣)に関する記載は一切ない。『欽定八旗通志』(影印本、中国史学叢書続編2、台湾学生書局、1968)卷三百十七~三百十九、内大臣年表一~三は、乾隆六十年(1795)まで記述されているが、同様に火器営に関する記載は見られない。が、平時には領侍衛内大臣や都統など高官が営務・訓練を司り、戦時にはその中の第一人者(ここでは常泰)や現地の将軍に指揮権が委ねられたと思われる。なお、康熙三十五年(1696)には、「満洲火器営銀印」が鋳給されている(13)乾隆『大清會典則例』卷一百八十、火器營。

 護軍参領・護軍校・驍騎参領・驍騎校については、先ほどの乾隆『大清會典則例』卷一百八十には、「以上の官校は均しく兼任たり」とあることから、彼らは護軍営・驍騎営から出向し、一時的に火器営に配属されていたものであると理解できる。

(b)鳥鎗護軍

 雍正・乾隆『大清會典』の記述内容を比較すると、雍正『會典』とは異なり、乾隆『會典』では、各官の満洲・蒙古旗人の内訳が明記されており、さらに雍正『會典』の「驍騎參領」が「鳥槍驍騎參領」に、「閑散旗員」の部分が「管鳥槍散秩官」に、「護軍校」が「鳥槍護軍校」となっている。また、雍正『大清會典』ではニル毎の鳥鎗護軍の割り当てのみ、卷一百十一、兵部一に、

滿洲蒙古毎佐領、設前鋒二名、親軍二名……、鳥鎗護軍三名[康熙三十年設……]

と記載されているのに対して、乾隆『會典』では鳥鎗驍騎、砲驍騎についても同じ部分に記述している。これらの史料からは、康熙三十年の火器営編成当初の鳥鎗護軍の様相は明確には見出せない。

 この問題について、火器営編成当初の史料を検討すると「鳥鎗護軍」は、康熙三十年(1691)~三十五年(1696)において、『實録』および『朔漠方略』に頻出する。「鳥鎗護軍」自体の用例は、『朔漠方略』卷十五、康熙三十四年(1695)二月丁酉(五日)條の、八旗兵に馬匹の増置を命じた記事の中に

「‥‥‥其滿洲鳥鎗護軍之馬、交管鎗礮大臣……。」。

と見えるのが最初であり、以後頻出するが、それ以前にも鳥鎗護軍を指すと思われる用例が、本章第一節で挙げた同書、卷九、康熙三十年三月庚子(十四日)條の下線部、「滿洲火器營護軍、正に操練するに當りて、亦必ずしも帶往せず。」という記事に現れ、さらに同書、卷十二、康熙三十一年(1692)九月辛酉(十五日)條に

命遣兵備大同。

先是撥毎佐領鎗手護軍各一名、前鋒、親軍、護軍各十名、漢軍火器營兵二千……。

と記されている。史料からは、当時、ガルダンの攻撃に備え、漢軍火器営とともに「鎗手護軍」が大同に派遣されていたことが窺えるが、「鎗手」とはいうまでもなく鳥鎗手の意であるから、鳥鎗護軍と同一の兵種と見ることができる。

(c)鳥鎗驍騎

 鳥鎗驍騎については、『朔漠方略』卷十六、康熙三十四年八月己酉(二十日)條に、

增發官兵。

上諭議政大臣曰:「前因備兵過多、曾經減退。朕今思之、仍宜備兵一隊。此所備者、於前護軍三名、親隨護軍一名、再增毎佐領下護軍各一名、鳥鎗驍騎一千二百名、鳥鎗護軍四百名。按鳥鎗驍騎之數、派夸蘭大、及章京統之。……」。

と見えるのが初めての用例であるが、それ以前から存在していたことは確実である。

 そして、満洲の鳥鎗護軍は,満洲人の護軍参領,護軍校の隷下に、鳥鎗驍騎は満洲人の驍騎参領、驍騎校の隷下にあり、蒙古についても同様であったと考えられる。

(d)砲驍騎

 砲驍騎については、康熙三十五年(1696)二月二十日(14)『朔漠方略』卷二十、康熙三十五年(1696)二月丙午(二十日)條。、帝自ら、モンゴル親征への準備として、各部隊の戦闘時の序列について予定した上諭〔及び大臣らの議論〕に現れる「滿洲火砲兵四百」がそれを指すと考えられる。なお、モンゴル親征時には、砲驍騎は「満洲火器営」の鳥鎗驍騎が兼ねていた(15)同書、卷二十三、康熙三十五年(1696)五月壬戌(七日)條。

 以上、(a)~(d)の兵種は雍正『大清會典』には明文が見られないものの、編成当初から存在したものと見て大過あるまい。

 本節の結論に替えて、(図5)「康熙三十年代火器営組織図」を作成した。本文と併せ参照されたい。

 

 (図6)康熙三十年代火器営組織図

 (雍正『大清會典』卷一百十一、兵部一、八旗甲兵、同卷百十一、兵部二、火器營、乾隆『大清會典則例』卷一百十一、火器營、指揮官は『聖祖實録』卷一百五十六、康熙三十一年(1692)九月壬申、癸酉(二十六日、二十七日)及び『親征平定朔漠方略』卷十九 康熙三十五年(1696)正月己巳(十二日)、品級は雍正『大清會典』卷一百十一、兵部一、旗員品級、下線部は乾隆『大清會典則例』一百八十、火器營によった)

康熙三十年代火器営組織図

図6 康熙三十年代火器営組織図

 

第5節 火器営の戦術(訓練・大閲の状況)

 本節では、火器営の戦術、任務等について、皇帝の面前で行われる演習・閲兵式である大閲を中心に検討を加えたい。なぜなら大閲とは、戦前日本の陸海軍の大演習に当たるもので、軍隊がその理想とする戦術を皇帝の前に披露する場に他ならないからである。

 前節で掲げた乾隆『大清會典則例』火器營の後段の記述によれば、編成当初、火器営は毎年七月十六日に操演を開始し、翌年四月十六日に停止し、毎月6日間を子母砲、6日間を鳥鎗射撃訓練に充て、冬季に隊列を組んでの演習を行い、また秋季に十日間蘆溝橋にて子母砲の操演を実施していた。この訓練制度は、乾隆三十五年(1770)の内外火器営の分割まで受け継がれたようである。

 史料から知りうる限り、火器営が初めて大閲に登場したのは、康熙三十一年(1692)九月であった。『聖祖實録』卷一百五十六、康熙三十一年(1692)九月壬申、癸酉(二十六日、二十七日)の條には、

……上幸玉泉山、大閲八旗前鋒、護軍、驍騎、及火器營兵。皆擐甲胄、分翼排列。上由右翼至左翼、遍觀畢、登玉泉山巓、御黄幄。官兵皆吹角放大礮三次。騎兵、歩兵齊放鳥鎗、進止整肅旗幟烜赫……。

癸酉……、上幸玉泉山巓、御黄幄。八旗官兵照前排列、放礮火鳥鎗、以次進退畢。總管鳥鎗騎兵内大臣公長泰等奏曰:「臣等所練習鳥鎗兵、請近御前試放」。上曰:「爾等所練習者幾種」。長泰等奏曰:「有馬上放一鎗、又射一箭者、有趨進時放鎗不絶者、有連環旋轉放鎗者、有跪而放鎗者、有仰臥而放鎗者」。上令趨進時放鎗不絶、與連環旋轉放鎗二種試放、隨令八旗鳥鎗騎兵、亦照此二種試放。上甚嘉焉。

と、大閲の様子、鳥鎗の実演が記されているが。ここで注目すべきことは、八旗の騎兵に「馬上にて一鎗を放ち、又一箭を射る」という、馬上から鳥鎗を放ち、その後弓を射るという、これまでの清朝火器軍には見られなかった新しい戦術や「趨進せる時鎗を放つこと絶へざると、連環し旋轉して鎗を放つ」こと、すなわち交代射撃という鳥鎗の威力を最大限に発揮しうる戦術を訓練させているということである。

 特に、「馬上にて一鎗を放ち、又一箭を射る」ことは、その後、火器営兵丁の必ず身に付けるべき重要な技芸となった。『諭行旗務奏議』雍正十二年(1734)九月十七日奉旨の「八旗都統等議覆」(16)『諭行旗務奏議』(影印本、『上諭旗務議覆・諭行旗務奏議』中国史学叢書続編49、台湾学生書局、1976)。には、火器営の兵丁の「馬上に於いて一鎗一箭するを演習す」る技能が衰えを見せており、八旗都統等が「査するに、滿洲火器營兵丁の馬上に於いて一鎗一箭するを操演するの處、尋常に鎗を放ち、騎射するを操演するに較ベ、更に緊要たり。」として、この技芸の重要性を指摘し、優れた成績を示すものを「頭目」とし、技術向上への意欲をかきたてるべきことを奏している。すなわち、馬上での鳥鎗射撃は騎射とともに火器営兵丁の主要な任務となっていったのである。

 そして、モンゴル親征を間近に控えた康熙三十四年(1695)十一月二十二日の大閲において、火器営、漢軍火器営を中心とする清朝軍は、それまでの大閲に見られなかった新たな陣型を公開している。以下、『朔漠方略』卷十七、康熙三十四年(1695)十一月庚辰(二十二日)條の記事を引用すると、

庚辰、上幸南苑閲兵。

……維時、南苑西紅門内曠地、八旗官兵鎗礮按旗排爲三隊。第一隊以漢軍火器營鳥鎗歩軍居中、礮位排列左右。滿洲火器營鳥鎗馬軍、列於礮位兩頭。第二隊、以前鋒兵居中、八旗護軍續列兩頭。第三隊、排列八旗護軍、両翼則設立應援兵。……上遍閲八旗兵陣、及火器營軍容畢、中立於馬軍之前。鳴角者三擊鼓、歩軍舉鹿角、大礮、衆兵齊進、鳴金而止、齊發鎗礮一次。如此九進、至十次、連發大礮、火器營馬歩軍循環連發鳥鎗略無間斷、其聲震地。礮聲畢、各開鹿角爲門、後二隊馬兵逐隊出、頃刻列齊鳴角、大呼而進、復鳴角收軍、立於本陣。

とあり、これを図式化したものが(図6)である。この史料を要約すれば、

①角笛を三度鳴らし、鼓を撃ち、歩軍が鹿角(逆茂木)を掲げ、一斉に進み、鐘を鳴らして停止。火砲を一斉射。これをさらに九回繰り返す。

②鹿角を開き、門を作り、後方二隊の騎兵が前進。

となり、歩兵、騎兵、銃砲兵の三つの兵種の長所、すなわち歩兵の制圧力、騎兵の衝撃力、火砲の物理的、精神的破壊力を有機的に統合するいわゆる「三兵戦術」が清朝においても運用が開始されたことを物語っている。以後、この陣型は、アヘン戦争(1840)に至るまで、清朝軍の代表的な戦術として、継承されたのであった(17)光緒『大清會典』卷八十八、火器營、大閲は、火器營が内外に分割されていることを除いて、基本的に康熙三十四年の大閲と異ならない内容となっている。。そして同時に、この新戦術は、清朝軍事史における意義にとどまらず、西欧近世における「軍事革命」のアジアへの波及がもたらした一つの結実であったといえよう。

 

(図7)康熙三十四年(1695)十一月庚辰大閲列陣図

(『親征平定朔漠方略』卷十七、康熙三十四年(1695)十一月庚辰(二十二日))

康熙三十四年(1695)十一月庚辰大閲列陣図

図7 康熙三十四年(1695)十一月庚辰大閲列陣図

 

 

第6節 モンゴル親征における火器営

 本節では、火器営にとって初めての実戦となった、康熙三十五年(1696)のモンゴル親征時の動向について述ベ、その軍事的特性を考えたい。

 康熙三十五年二月三十日、清軍は東路、中路、西路の三軍に分かれて、モンゴル高原のガルダン征討に出撃した。東路軍は、黒龍江将軍薩布素(18)〔サブス sabsu 、満洲語での綴りは『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯、p166-168、康熙三十五年五月二十七日付皇太子宛書簡から確認〕に率いられ、盛京(瀋陽)から、中路軍は、康熙帝自ら率い、北京から、撫遠大将軍費揚古(19)〔フィヤング fiyanggū、満洲語の綴りは『八旗通志列伝索引』(満文老檔研究会、1965)にて確認〕率いる西路軍は甘粛、帰化城から出発し、三路合わせた兵数(輸送隊含む)は、約十四万名であった。火器営はこの内の中路軍と西路軍に配属されていた(20)袁森坡「康熙与昭莫多之戦」(『故宮博物院院刊』1990年第1期、1990)の統計による。

 『朔漠方略』卷二十、康熙三十五年(1696)二月丙午(二十日)條に見える、内大臣馬思喀等による中路軍部隊編成案には、火器営の「満洲火礮兵四百」とニル毎に1名の鳥鎗護軍、後続の輜重部隊の護衛に、2ニルにつき1名の鳥鎗護軍が配置され、また中路軍の「頭隊(前衛部隊)」と「次隊」に、それぞれ2ニルにつき1名の鳥鎗驍騎を動員すべきことが規定されている。先ほどと同様に、康熙三十五年時点の満洲ニル663、蒙古二ル208に、このニル毎の兵丁動員割り当てを掛ければ、中路軍における火器営兵力は、

鳥鎗護軍……満洲:約663名、蒙古:約208名

(輜重部隊護衛)満洲:約331名、蒙古:約104名

計満洲:約994名、蒙古:約312名中路軍総計:約1306名

鳥鎗驍騎‥‥‥満洲:約663名、蒙古:約208名中路軍総計:約871名

その他「満洲火礮兵」 400名

となる。

 西路軍には、火器営下の鳥鎗驍騎が1ニルにつき1名、満洲:約663名、蒙古:約208名、即ち約871名が配属され、撫遠大将軍費揚古の指揮下に組みこまれていた(21)『朔漠方略』卷十七、康熙三十四年(1695)十一月丁丑(十九日)條に記録された西路軍に派遣する北京の八旗兵の内訳には、「……先經議政大臣僉議、京師増發兵、毎佐領下護軍三名、鳥鎗兵一名、倶給馬四匹‥‥‥。」とあり、ニル毎の護軍3名、鳥鎗兵1名に馬が1匹づつ支給されていることから、鳥鎗兵は騎馬銃兵である鳥鎗驍騎であった可能性が高い。

 親征中の康熙三十五年五月三日、ガルダン軍接近の報を受けた康熙帝は、火器営の指揮官である常泰に命じて中路軍の戦闘隊形を立案させ、八旗に伝諭している。この隊形は先ほど述べた前年の大閲のそれを基本的に踏襲し、全体に火力を重視したものとなっている(22)同書、卷二十三、康熙三十五年(1696)五月戊午(三日)條に「命繪陣圖、傳示八旗。上諭内大臣公常泰曰:「緑旗兵、著列鹿角中間、緑旗兵之次、以兩翼八旗漢軍砲位鳥鎗排列。漢軍火器之次、將八旗滿兵馬上所載之砲位分翼排列。鹿角後之頭隊兵、令各按旗分、排列鳥鎗護軍、次列護軍、又次列鳥鎗驍騎。凡八旗倶照此排列、二隊兵、著於頭隊後排列、傍隊兵、既無砲位、將漢軍子母砲、毎旗給與兩位、此砲位著滿洲鳥鎗手驍騎兼管看護。陣勢著分張排列。爾與議政大臣等會議具奏」。常泰等隨即遵照上諭、繪圖陣勢式様進呈。奉旨:「這式様甚好。著議政大臣等同閲議奏」欽此。臣等會議:「得皇上諭旨指授、倶已周到。應即照此遵行、交與兵部、暁諭八旗、并行註册」、報:「可」。」とあり、先ほどの康熙三十四年(1695)十一月の大閲の戦闘隊形と基本的に相違のないものであった。

 同月十二日には、中路軍から逃走するガルダン軍の追撃のため、康熙帝は少数精鋭の追撃部隊を編成したが、その構成は、

……除喀瓦爾達所領前鋒二百外、其餘前鋒盡行派出、滿洲火器營兵、及親随護軍、亦盡派出‥‥‥。(23)同書、卷二十四、康熙三十五年(1696)五月丁卯(十二日)條。

となっており、騎兵の精鋭である前鋒、護軍とともに「滿洲火器営」が随伴している。そこからは、八旗漢軍や漢軍火器営とは異なる機動力の高さが伺える。

 五月十三日、フィヤング率いる西路軍は、逃走してきたガルダン軍と、ジョーン=モド(現、モンゴル国、ウランバートル南西)にて遭遇し、川沿いの丘を巡る激しい砲火の応酬の末、寧夏総兵官殷化行の進言により、機を見て騎兵をガルダン軍の側背に投入し、大勝利を収めた(24)西路軍の動向とジョーンモドの戦いの経過については、西路軍に従軍した当時の寧夏総兵官殷化行の著した『西征紀略』(『昭代叢書』戊集卷八)に詳しい。『朔漠方略』は、皇帝が中路軍を陣頭指揮した関係上、中路軍の記述が中心となっている。。康熙帝は、皇太子への満文書簡で、その様子を捕虜の証言から引用している。この史料には、

hese hūwang taidzi de wasimbuha, adaha da rassi, damba hasiha sebe gajime,juwan nadan de isinjiha,……terei alara gisun,……juwan ilan de terleji bade wargi juhūn(jugūn) i amba cooga(cooha) be bengneli de ucaraha, tere fonde meni cooga(cooha) sunja minggan funcembihe miyoocan juwe minggan isirakū bihe,……tuwaci wargi juhūn(jugūn) i cooga(cooha) den be gaifi ba i aisi be bahabi,ūlet emu ajige mudun be gaifi yafahalafi salime gaiha bihe,amba cooga(cooha) yafahalafi poo miyoocan simdame umesi teksin,umesi elhei ibeme juleri ai jaka be sarakū moo be tukiyeme,geli muheliyen fulgiyan jaka be beye be dalime ibeme jihei juwan okson de isijiha manggi,gabtara sirdan aga labsan gese isijihe,g’aldan i baci neneme aššaha,terei sirame danjila,danjin ombu aššaha,arabtan ningge kemuni sujafi bihe,tereci manju i moringga cooga(cooha) meni nukte suwaliyame kuwalame gaifi,hehe juse yooni,temen morin umesi ambula,igan(ihan) juwe tumen funceme, honin duin tumen funceme gemu gaiha,mini sabuhangge anu katun miyoocan de goififi bucehe,dai baturjaisang poo te(de) goififi emu siran i duin niyalma fondo tucifi bucehe,bolat hoja sirdan de bucehe ,……

旨を皇太子に下す。侍読学士ラシがダンバ=ハシハらを連れて十七日に到着した。……彼の話では、……十三日にテルレジの地で西路軍にばったりと出会った。その時に自分たちの兵力は五千余名で、小銃は二千挺足らずだった。……見ると西路軍は高地を占領して地の利を得ていた。オーロト側はある小さな尾根を占領して、徒歩立ちになって待ち受けた。(清)軍は徒歩立ちになって、砲や小銃を放ちながら、極めて整然と、極めてゆっくりと前進し、前に何か知らないが木(鹿角)を掲げ、また円い赤い物(藤牌)で身を蔽って進んで来るうちに、十歩の距離に達したとき、射る矢が雨あられのように飛んで来、ガルダンの持ち場から真っ先に浮き足立った。その次にダンジラ、ダンジン・オンブが浮き足立った。アラブタンの手の者はまだ支えていた。それから満洲の騎兵が自分たちの輜重をすっかり包囲して、女子どもをすべて、駱駝、馬をはなはだ多数、牛を二万余頭、羊を四万余頭、みな奪った。自分の見たところでは、アヌ=ハトンは銃弾に当たって死んだ。ダイ=バートル=ジャイサンは砲弾に当たって、(その砲弾が)続けざまに四人を貫通して死んだ。ボラト=ホージャは矢で死んだ。(25)『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯 pp244~254,53,康熙三十五年(1696)五月二十二日到。岡田英弘「モンゴル親征時の聖祖の満文書簡」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1983)によれば、五月十四日発。

とあり、清朝軍による「三兵戦術」の様相が見事に描き出されている。

第7節 漢軍火器営と火器営の比較

 本節では、漢軍火器営と火器営の比較を行い、火器営の特色を明らかにしておきたい。(図3)、(図6)を参照されたい。

 第一に、組織形態と構成員である。

 漢軍火器営は、指揮官として、都統が左右翼に1名づつおり、一般の(驍騎営)の八旗漢軍都統や内大臣が兼任していた。特に、佟国綱は康熙帝の母方の叔父という立場であり、そこから、漢軍火器営が皇帝に極めて近い部隊であったことが想像できる。そして、漢軍とは異なる精鋭部隊としての扱いを受けていたことも窺える。そして、兵員は、八旗漢軍の各佐領から兵丁20名を選抜して、部隊を構成していた。一方、火器営は、その組織形態と皇帝との関係は漢軍火器営に似通っているが、その構成員が満洲・蒙古旗人、殊に護軍など、騎兵の精鋭が含まれる点が異なる。

 第二に兵力は、漢軍火器営は5100名、火器営は約6000~7000名であって、兵力的には双方ともあまり大きなものではなかったことが分かる。

 第三に装備、戦術、訓練である。漢軍火器営について言えば、既存の漢軍との差は、特に見出し得ない。これに対して火器営は、漢軍(歩兵)とは異なり、騎兵による火器運用が行われている。装備は、満洲・蒙古の鳥鎗護軍、鳥鎗驍騎1名毎に鳥鎗1、満洲各旗毎に子母砲5門というものであった。子母砲は、八旗漢軍の主力装備である紅夷砲とは異なり、軽量で馬の背に乗せて運ぶことができ、後装砲という構造上、発射速度も早いものである。

 また、騎馬での射撃というこれまでの清朝火器軍に存在しなかった新戦術が導入されており、康熙三十五年(1696)のモンゴル親征中の追撃戦において、八旗の精鋭騎兵である前鋒、護軍に随伴できたことからその機動力の高さが窺える。

 第四にこれまで述べて来たことをまとめると以下のようになる。

 まず、共通点は、組織形態・兵力・軍事的位置であって、そこから、火器営は漢軍火器営に倣って編成されたと考えられる。

 次に、相違点であるが、兵員では、漢軍火器営では漢軍旗人で歩兵であるのに対し、火器営は満洲・蒙古旗人によって編成されかつ騎兵の精鋭である護軍を含み、装備では、漢軍火器営がこれまでの火器軍と相違が見出せないのに対し、火器営が鳥鎗や子母砲のみを装備し、輸送と補給の負担を著しく軽減させていること。戦術は騎兵による射撃を主としており、機動力も格段に向上していることである。

 すなわち、火器営は八旗漢軍や漢軍火器営の抱えていた課題である、火器・弾薬の輸送・補給問題と野戦での機動性の低さへの解決策として編成されたのであり、前述のように、清朝における「三兵戦術」導入の中心としての意義をも有していた。

 しかしながら、火器営がなぜ康熙三十年(1691)という時期に編成されたのか、そして、編成と戦術の内容が定まった要因については、本章の考察のみでは明らかにしえないので、次章にて検討したい。

おわりに

 火器営(満洲火器営)とは、康熙三十年(1691)に、京旗の満洲・蒙古旗人によって編成された、騎馬銃兵(鳥鎗)・砲兵(子母砲)であり、兵力は約6000~7000名であり、主任務は、馬上からの鳥鎗射撃と子母砲の運用であった。また、装備と戦術から見て機動力も高かったと恩われ、康熙三十五年(1696)のモンゴル親征中の追撃戦において、八旗の精鋭騎兵である前鋒、護軍に随伴できたことからもその行軍速度の早さが見て取れる。

 そして、漢軍火器営との共通点は、組織形態、兵力、軍事的位置であって、そこから、火器営は、皇帝直属の火器軍として、漢軍火器営に倣って編成されたと考えられるが、相違点として騎兵を主体とする構成と装備、戦術が挙げられる。

 すなわち、火器営は、皇帝による火器の掌握はもちろん、満洲・蒙古騎兵の機動力と鳥鎗、子母砲の火力を統合することを目的とした部隊であり、清朝によって新たに導入された「三兵戦術」において、中心的役割を担っていた。この点において、火器営設立の意義は、ヨーロッパ世界の軍事革命のアジアへの波及と八旗の騎兵戦術の統合であり、かっ清初以来の懸案であった火器の輸送問題への一つの回答であったといえよう。

 次章では、このような特色を持つ火器営がなぜ編成されなければならなかったかについて考察したい。

       [ + ]

    1. 王兆春『中国火器史』 pp265~266、解立紅「紅衣大砲与満洲興衰」、 pp110~111。
    2. 乾隆『大清會典則例』卷一百七十五、八旗都統、訓練には、「(康熙)三十年奏準」として、春季の操練に毎ニル1名の鳥鎗護軍を参加させる規定が記載されている。
    3. 解立紅、前掲論文 pp110~111。
    4. 序注(3)阿南惟敬「漢軍八旗成立の研究」。氏は『八旗通志』(初集)「旗分志」の記述に基づいて、満洲・蒙古・漢軍各ニルを編成年次毎に分類している。
    5. 乾隆『大清會典則例』卷一百七十一、八旗都統一、編旗設官には、乾隆二十二年(1757)までの、年度毎のニル編成数が記されているが、その根拠は不明。
    6. 『皇朝禮器圖式』(影印本、『欽定四庫全書』史部、政書、上海古籍出版社、1987)卷十六、武備四、火器、兵丁鳥鎗。
    7. 王兆春、前掲書、p281参照。
    8. 『宮中檔康熙朝奏摺』第二輯、 pp855~859、〔「陝西肅州總兵官奴才路振聲謹奏、爲冒昧奏請事。……三年來、秣馬厲兵、營伍器具徐徐補葺、漸覺改觀。獨念衝堅破敵火器爲先、而得手應心、更無如子母砲位。査鎭營舊有子母砲捌拾位、鎭屬協路舊有子母砲肆拾位。演習年久、倶皆刷損無濟。不但發不中的、亦且造不合式、徒有其數。今奴才捐資改製、業已造成貳拾位。試爲演打、少裨實用、験其準頭、僅在貳百歩以内、終是不能致遠。奴才向叨扈從耳聞、主子内造子母砲、輕巧捷便、中的神速、可打肆伍百歩之遠。奴才不揣冒懇、仰乞天恩、討賜子母砲壹位發給。奴才家人黄煥駄囘肅州、奴才照式捐製、固守邊疆。造完之日、仍將原砲上。庶邊疆要地萬年沐指授之竒、玉塞雄關千載如金湯之固矣。爲此謹具奏摺、以聞。[硃批:内造子母砲外省從未叢去、故不輕給。砲子之去遠、非關砲鉄、實係火楽〕。爾留心火楽、即能至遠。康煕伍拾年正月參拾日、陝西肅州總兵官、奴才路振聲」〕。 
    9. 『康熙起居注』康熙五十四年(1715)乙未、十一月初五日丁酉條には「……又覆請兵部、覆山西太原總兵官金國正所題:「伊標下並無子母砲位、自行捐造二十二位、請分給各營、操練習熟、於營伍大有裨益」、准照請一疏。上曰:「子母砲係八旗火器、各省概造、斷乎不可。前師懿徳、馬見伯曾請造子母砲、朕倶不准行。此事部議准行、殊屬不合。爾等即照部議票擬、亦誤矣。本發還、着再議具奏」。とあり、康熙帝は怒りをあらわにして、子母砲の給付を禁じている。
    10. 序注(1)参照。
    11. 〔チャンタイ cangtai〕長泰(常泰)については、『八旗通志』(初集)卷一百十四、八旗大臣年表七、八旗内大臣等年表下に、康熙三十一年(1692)九月から同三十六年(1697)十月に鑾儀衛掌衛事内大臣の職にあったことを記し、その他『聖祖實録』、『朔漠方略』などの史料に散見されるが、管見の限り伝記は一切見当たらず、康熙三十七年以降の事跡は不明瞭である。〔楊珍「清一等公常泰考略」(『満語研究』2016年第2期、2016)によると、チャンタイはソニン sonin(索尼)の孫、康熙帝の孝誠仁皇后の弟であり、重臣として活躍したが、皇太子問題に巻き込まれて失脚、康熙四十七年(1708)頃に亡くなっている。なお、ソニン及びチャンタイの満洲語での綴りは『八旗滿洲氏族通譜 jakūn gūsai manjusai mukūn hala be uheri ejehe bithe』(満文本、東京大学総合図書館蔵)、巻九 uyuci debtelin、都英額地方赫舍理氏 duyengge ba i hešeri hala、碩色巴克什 šose baksi條にて確認。〕
    12. (79)『八旗通志』(初集)卷一百十三、卷一百十四、八旗大臣年表七~八 八旗内大臣等年表上・下には順治元年(1644)から雍正十三年(1735)に至る領侍衛内大臣、内大臣、護軍統領、前鋒統領、歩軍統領、内務府総管、鑾儀衛掌衛事内大臣、鑾儀使の任免を記しているが、火器営総管(総統大臣)に関する記載は一切ない。『欽定八旗通志』(影印本、中国史学叢書続編2、台湾学生書局、1968)卷三百十七~三百十九、内大臣年表一~三は、乾隆六十年(1795)まで記述されているが、同様に火器営に関する記載は見られない。
    13. 乾隆『大清會典則例』卷一百八十、火器營。
    14. 『朔漠方略』卷二十、康熙三十五年(1696)二月丙午(二十日)條。
    15. 同書、卷二十三、康熙三十五年(1696)五月壬戌(七日)條。
    16. 『諭行旗務奏議』(影印本、『上諭旗務議覆・諭行旗務奏議』中国史学叢書続編49、台湾学生書局、1976)。
    17. 光緒『大清會典』卷八十八、火器營、大閲は、火器營が内外に分割されていることを除いて、基本的に康熙三十四年の大閲と異ならない内容となっている。
    18. 〔サブス sabsu 、満洲語での綴りは『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯、p166-168、康熙三十五年五月二十七日付皇太子宛書簡から確認〕
    19. 〔フィヤング fiyanggū、満洲語の綴りは『八旗通志列伝索引』(満文老檔研究会、1965)にて確認〕
    20. 袁森坡「康熙与昭莫多之戦」(『故宮博物院院刊』1990年第1期、1990)の統計による。
    21. 『朔漠方略』卷十七、康熙三十四年(1695)十一月丁丑(十九日)條に記録された西路軍に派遣する北京の八旗兵の内訳には、「……先經議政大臣僉議、京師増發兵、毎佐領下護軍三名、鳥鎗兵一名、倶給馬四匹‥‥‥。」とあり、ニル毎の護軍3名、鳥鎗兵1名に馬が1匹づつ支給されていることから、鳥鎗兵は騎馬銃兵である鳥鎗驍騎であった可能性が高い。
    22. 同書、卷二十三、康熙三十五年(1696)五月戊午(三日)條に「命繪陣圖、傳示八旗。上諭内大臣公常泰曰:「緑旗兵、著列鹿角中間、緑旗兵之次、以兩翼八旗漢軍砲位鳥鎗排列。漢軍火器之次、將八旗滿兵馬上所載之砲位分翼排列。鹿角後之頭隊兵、令各按旗分、排列鳥鎗護軍、次列護軍、又次列鳥鎗驍騎。凡八旗倶照此排列、二隊兵、著於頭隊後排列、傍隊兵、既無砲位、將漢軍子母砲、毎旗給與兩位、此砲位著滿洲鳥鎗手驍騎兼管看護。陣勢著分張排列。爾與議政大臣等會議具奏」。常泰等隨即遵照上諭、繪圖陣勢式様進呈。奉旨:「這式様甚好。著議政大臣等同閲議奏」欽此。臣等會議:「得皇上諭旨指授、倶已周到。應即照此遵行、交與兵部、暁諭八旗、并行註册」、報:「可」。」とあり、先ほどの康熙三十四年(1695)十一月の大閲の戦闘隊形と基本的に相違のないものであった。
    23. 同書、卷二十四、康熙三十五年(1696)五月丁卯(十二日)條。
    24. 西路軍の動向とジョーンモドの戦いの経過については、西路軍に従軍した当時の寧夏総兵官殷化行の著した『西征紀略』(『昭代叢書』戊集卷八)に詳しい。『朔漠方略』は、皇帝が中路軍を陣頭指揮した関係上、中路軍の記述が中心となっている。
    25. 『宮中檔康熙朝奏摺』第八輯 pp244~254,53,康熙三十五年(1696)五月二十二日到。岡田英弘「モンゴル親征時の聖祖の満文書簡」(『内陸アジア・西アジアの社会と文化』護雅夫編、山川出版社、1983)によれば、五月十四日発。

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