王濤「清火器営初考」
王濤「清火器営初考」(『軍事歴史研究』2007年第3期)
著者の王濤氏は、太宗天聡年間から康熙年間の多くの史料に分析を加え、入関前の「八旗火器営」、「旧漢兵」(のちの八旗漢軍)から「漢軍火器営」そして「八旗満洲火器営」(満洲・蒙古旗人によって編成。「火器営」は通常この部隊を指す)など多くの「火器営」の兵種・制度や変化の過程につき、初歩的な整理を行っている。
まず入関前の天聡三年(1630)の北京進攻の際の史料に見える「八旗火器営」について検討を加え、「八旗火器営」は一つの作戦部隊ではあったが、この時点ではまだ制度的に独立した兵種とはなっていなかったのではないかとしている。著者は、史料中でホンタイジが500名の「火器営兵」を率いながらも、一方で依然として八旗各旗を作戦単位として戦闘を行っていることを指摘し、「八旗火器営」はあくまで実戦において火力を支援するために臨時に編成されたもので、独立した火器専門部隊とするのは無理があるとし、したがって、この時点で八旗満州が独立した火器専門部隊「火器営」を有していたとするのは早計としている。
次に、著者は、ホンタイジがのちに八旗満洲各旗から漢人を抽出して「旧漢兵」による独立した火器部隊、後の八旗漢軍を編成する一方、平時においては彼ら漢人と八旗満洲各旗・旗王(貝勒)との関係が依然として継続しているという点を指摘、これらの部隊は八旗満洲との制度的な継承性を有しているとしている。
著者は、これまで半ば常識化していた、八旗漢軍編成の旗王権力への対抗措置としての意義を過大評価せず、実際の制度運用と制度的な継承性にも注目すべきと主張している。
そして、このような八旗各旗からの兵員抽出による独立部隊編成は康熙年間の「漢軍火器営」、康熙二十八年(1689)編成の「漢軍火器兼練大刀営」、康熙三十年(1691)に編成された火器営(八旗満洲火器営)のモデルとなったとしている。
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以下、感想を述べる。
「火器営」という単語は元々は火器を運用する部隊を広く指す普通名詞であり、多くの史料にさまざまな「火器営」が登場しているため、意味のブレや混乱を生んでおり、研究の障害となっている。したがって今回の王濤氏が行った整理の意義は大きい。
八旗各旗から兵員を抽出して独立した部隊を編成するという方法は、八旗から選抜された精鋭部隊である護軍や前鋒という例があり、それが康熙三十年(1691)に編成された火器営(八旗満洲火器営)にも受け継がれていることは、これまでの研究でも知られてきたが、 「旧漢兵」もモデルとなっていたという視点は面白い。
八旗各部隊・兵種の制度変革における継承性、連続性という視点には賛成したい。
惜しむらくは、康熙二十八年(1689)編成の「漢軍火器兼練大刀営」に関する部分で、『康熙起居注』、『宮中檔康熙朝奏摺』や『親征平定朔漠方略』などの関連史料を取り上げず、やや浅い分析となっているところ。『康熙起居注』の漢軍火器営編成に関する史料や『宮中檔』・『朔漠方略』内の対ジューンガル部戦における漢軍火器営、満洲火器営の活動を示す個所を取り上げていれば、著者の論をより補強できたと思うのだが。
修士論文でこの辺を少しかじったので、個人的にもう少し突っ込んで分析してみたい。
“王濤「清火器営初考」” に対して2件のコメントがあります。
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イメージ的に、清朝は明よりも火器を重視した王朝のイメージがありますがアヘン戦争の時に欧米列強にぼろ負けしてしまった感じがします。同時期の日本見たく火縄銃みたいな者しか持っていなかったのでしょうか。
>Tomohiroさんそうとおりです。アヘン戦争のころの清朝の火器は16~17世紀の大砲や火縄銃しかありませんでした。清朝は17世紀のロシアやジューンガル部との戦いを通じて火器部隊を精力的に整備してきましたが、18世紀前半ににジューンガル部を平定し、強大な外敵が消えてからは、現状に安んじて進歩を止めてしまいました。しかし、この18世紀こそがまさに産業革命によりヨーロッパの工業力や科学技術が飛躍的に進歩しはじめた時代だったのです。清朝は17世紀の火器のまま、19世紀のアヘン戦争を迎えることになったのです。